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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第7回

■ 日時:2013 年 10 月 26 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ ゲスト:鳴海幸(看護師・キャンナス仙台中央代表)
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。

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フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社

第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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「震災を読み解くために」読書会の理念

私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第7回レポート

写真1

*引用ページ数はすべてジャン=リュック・ナンシー著(渡名喜庸哲訳)「フクシマの後で――破局・技術・民主主義」(以文社)のものです。

今回もまた新しく参加して下さった方々が何人もいらっしゃいました(中には奈良からわざわざ来て下さった方も!)が、読書会は前回読んだところで、筆者の気になっていた箇所から始めさせて頂きました。

というのも、後から考えてみるとその箇所には二通りの読み方があるにもかかわらず、前回の読書会では一方の解釈を当然の前提のようにして対話がすすんでしまいましたし、レポートも同様の解釈に基づいて書いてしまっていたからです。しかしその箇所の解釈によって、ナンシーのいう「現在」に固有の性質といわれているものの意味がかかっているので、無視しえません。問題の箇所を引用します。

【ほかのどのような文化も、われわれの近代文化ほど、古文書や将来の予測を絶えず蓄えるという経験を持ちはしなかった。ほかのどのような文化も、過去や未来を現在化し、現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった。逆に、ほかの文化はどれも、特異な現在的存在の接近に留意する術を知っていたのだ。】[太字強調引用者](p. 69)

 

この箇所について、前回の読書会のレポートでは次のように書きました。

 

【いまや地震や津波、竜巻といった極めて突発的な出来事さえも、様々なメディア、端末によって「記録」され、繰り返し、そのつど思いついた時に見ることができますし、あるいは経済成長率や彗星の接近時刻を予測し、現在の投資先を決めたり有給休暇の日程を決めたりすることができます。極端な例はDNAや手のレントゲンで子どもの未来を予測し受けさせる教育を決めようとする場合です。こうした振る舞いをナンシーはここで過去や未来の「現在化」と言っているのだと思います。面白いのは、そうして「現在化」しても現在はけっして「過ぎ去る」ことを止めなかったことをナンシーが指摘している点です。】

 

問題は、ここでの最後の一文です。レポートにはこのように書きましたし、前回の読書会中もやはり、種種の技術を用いたとしても「現在」はけっして「過ぎ去る」ことを止めなかったとナンシーが書いているのだと想定して話が進みました。だからこそ、災害を受けた「現地」とその映像とでは、決定的な違いがあって、「現在化」する手段がいかに高度に発展しようとも、「現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった」のだとナンシーが言っていると考えて対話が進んだのでした。それに、今日もこれと同じ意見が聞かれました。

たとえば旅先で実際に肉眼で見る風景と写真の風景とは違うとか、テレビに映る映像は、映される“実像”とは異なる“虚像”であるといった話がありました。さらにもうひとつ、ゴルフ中継の例――ナンシーのいう「現在」を理解するためにも非常に有用で興味深い例だと思いますが――が挙がりました。この例を挙げて下さった方がいうように、テレビに映った映像でもそれが「中継」であるほうが、つまり今現在起こっている出来事の映像であるとして観るほうが、ただの録画された放送を観るよりも「臨場感」といったようなものが付け加わって確かにより「面白い」と感じます。以前に挙げた例はどれも現実/映像についての体験、あるいは肉眼/カメラを介した体験の差異を指摘したものでしたが、そうした体験の差異は必ずしも、映像が「編集」を経ているからとか、画面に映っているからとか、肉眼でみていないからといった理由から生じているのではないということがゴルフ中継の例でわかります。というのもゴルフ中継もその録画放送も、どちらも映像であり視聴者はゴルフの試合を肉眼で見ているわけではないからです。それにもかかわらず中継と録画放送の視聴体験は互いに異なるということは、それらの差異は現実/映像という違いに由来するのではなく、<「現在」の出来事のものである>という意識をもって観ているか否か、あるいは、当の映像の現在性、「現在のものである」という時間的性質の有無に由来することがわかります。実際の風景と写真、現地と映像との間にみられる差異の少なくとも一部も、この「現在のものである」という意識に由来するはずです。

とすると、この「現在のものである」というこのことは、極めて特異な事柄であるように思えます。なぜならそれは技術によって代替できないからです。これまでの考察によって、現在の技術をもってしても、過去の出来事を現在の出来事とすることはできないことがわかりました。勘違いの可能性はあるにせよ、過去の出来事を映した映像はいつ見ても「過去の」映像です。(ある意味ではSR=代替現実システムがそれを可能にすると言いうるかもしれませんが、それでもやはり、過去は「被験者にとっての」現在となるのであり、しかもその意味で“過去が現在となる”のは実験者にとってのことです。また被験者に現れたそれは「現在の」出来事でしかありえません。過去の出来事であることを知らずに、それが現在化された過去であることは知りえません。参考:http://www.cbc-net.com/topic/2012/10/mirage/ )したがって、近代文化においてもやはり「現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった」のだと、そう言えるのではないでしょうか。実際前回のレポートでは、引用箇所の最後の一文で述べたように、ナンシーはそのことを指摘しているのだと書きました。

しかしもう一度本文の引用箇所、特に強調した一文を読むと「ほかのどのような文化も、過去や未来を現在化し、現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった」と書かれています。ここで「ほかの文化」というのは、「われわれの近代文化」と対比される近代以前や非-西洋的文化ですが、問題は、ほかのどのような文化「も」というとき、それはわれわれの近代文化「も」そうだと言っているのか、それとも(直前の一文と同じように)「われわれの近代文化ほど」はそうではなかったと言っているかです。前者の場合、これまでの解釈を撤回する必要はありませんが、もし後者であれば、ナンシーはわれわれの解釈とはまるで反対のことを言っていることになります。すなわち、「われわれの近代文化」は「ほかのいかなる文化」にもなかったほど現在からそれに固有の過ぎ去りという性質を奪ってしまっているとナンシーが言っていることになるのです。この箇所の解釈次第でナンシーのいう「現在」の「固有の性質」がいかなるものかを際立たせられるかと思い、今回の読書会はこの箇所の二通りの解釈について議論することから始めようとしたのですが、すみません、筆者の言い方がまずくてあまりこの違いが際立たせられませんでした。それでもゴルフ中継の例が出て「現在」であることの特異性が浮き彫りになりましたし、このレポートを書きながら強調箇所の解釈はあの「も」の意味次第だと気づいて、二通りの解釈の対比を割と分かりやすく書けたと思います。読書会中はこの二つの解釈のどちらが適切かという主題を共有できないまま、以下で報告するように話が前に進んでしまいましたが、このレポートを読んで下さった方はぜひここで書いたことについてもう一度考えてみてください。

 



 

先程のゴルフ中継の話と関連して、「現在」を巡ってさまざまな話題がでました。ひとつには、ときに絵画などの芸術は、写真よりも描かれたそのときのことを良く表現するという話です。ある方は、幼いころに聴覚を失ったある画家(宮城県美術館にも作品が展示されている松本竣介という画家です)の絵を見て「静か」だと――より詳しくは、「郊外」というタイトルの絵を見て、そこから子どもの声が聞こえないと仰っていました。「静けさ」とは聴覚の情報であり、物理的に考えれば見ることもできなければ視覚情報にも変換しえないはずです。そうであるにもかかわらず、われわれは絵画という視覚表現から音の情報を読み取りうる。このようにして絵画ないし一般に芸術は、技術によるような「現在」のある断片や一側面の記録・保存だけでなく、いわばその時の「現在そのもの」ともいいうる内容を記録ないし表現することができるのではないか、こういう意見がありました(ところで写真も、時に単なる過去の視覚情報の保存手段であることを超えて、絵画と同等の表現たりうるとも思いますが、どうでしょうか)。

読書会中に言うことはできませんでしたが、今考えるとこの意見に対しては少なくとも二つの考え方がありうると思います。ひとつは、あの方に従って絵画は写真と比べるときわめて忠実に過去の体験を「記録」できると考えるもの、そしてもうひとつは、絵画から受けるあの印象、ないし“絵画体験”は、過去の出来事が現在に忠実に蘇ったことをいみするのではなくむしろ“絵画そのもの”についての体験であるという考え方です。言い換えれば、絵画の体験というのは、鑑賞者のうちで画家の過去の体験が「再生」されることなのか、それともその体験は、作品そのものについての観賞者特有の体験であるのか――この点もまた考えてみると面白いところです。

 



 

上で引用した箇所の最後の一文:「逆に、ほかの文化はどれも、特異な現在的存在の接近に留意する術を知っていたのだ」という一文についての議論もありました。初めて来た方にとっては、端的に「何のことを言っているのか良く分からない」箇所です。「特異な現在的存在の接近に留意する」とはいかなることかに関しては、前回の読書会で読んだ箇所で言及されていた日本の「花見」について考えるとイメージが湧いてくるかもしれません。前回のレポ―トにも書きましたが、ナンシーが言おうとしているのは、まさにその土地・その年・その時・この桜の“かけがえのなさ”とでも言うべきものについて注意を向けることこそではないかと、前回の読書会では話していました。

それに加えて今回の読書会ではさらに本文の叙述の理解を手助けしてくれるような話をして下さった方がいました。すなわち、「現在的存在の接近に留意する」ということでナンシーが言おうとしているのは、未来の目標や理想(ユートピア)を目指して、それらへと到達するために奴隷制や圧制、暴虐といった現状に目を瞑ったり、現状を未来のための手段や準備段階として据えたりするのではなく、現在ある現実を「直視」すること、「ありのまま」の現実を直視することだ、という意見です。<現在を直視する態度>と、そうではなく<現実を直視せず未来へまさに逃れ出るようにして視線を前へ向け、それから翻って現在を未来のための手段や準備段階として捉える態度>という、ナンシーが喚起しようとしている態度と等価性をもたらすような態度との二つの態度の対比を極めて鮮明にしてくれる意見でした。

明日の課題や期限の迫ったレポートのことを考えると、この瞬間の花見や芋煮も煩わしいものでしかなくなってしまいます。そう感じられてしまうのも、未来の目標(この場合はレポートの提出)を達成するための手段として花見や芋煮は不適切であるからです。あるいはコネをつくって将来の就職に有利に働かせようという目的で参加する会合やパーティでの出会いは、その目的に到達するための手段と化すでしょう。この場合、それがそのとき・その場所・その人との一回きりの「出会い」であることは隠され、もしも当の目的を到達するための手段としての価値・有用性が等しければ、どの出会いも等価で交換可能なものとなります。ある会社の発展・成長という(終わりなき)目的を追求するときには、リストラや過酷な労働条件もその目的のための手段として正当化されえ、やはり人材も互いに等価なものとして扱われていきます。あるいは未来へ向かうだけでなく、過去のノスタルジーへ逃れることについてもナンシーは指摘していました(p. 66)。映画「三丁目の夕日」で映し出された光景と現在とを比較して今を嘆いたり、今になっても、日々からあの時代の良さを見いだそうとしたりする人にとっては、現在とはせいぜい過去の再生であるか、劣化した反復でしかないのでしょう。このようにして未来にある目的や過去を絶えず志向するような人間や集団は、「現在的存在の接近に留意する術」を知らないと言えます。

この話と関連して、昔のひとと現代のひととの「時間の流れ方」の違いについて言及して下さった方もいました。昔のひと――平安時代でも江戸時代でも戦後初期でもいいですが――の時間は今と違ってゆっくり流れていたからこそ、その時々の花や月を愛でたり、畑仕事でさえ楽しんだりすることができたけれども、現代人は“忙しい”がゆえにそういった楽しみを見いだす余裕がないし、そういった楽しみを見いだすことができない――楽しむための能力が欠けてしまっている。

そしてさらにこの意見のすぐあとに、人間の均質化についての言及もありました。確かその方は、昔は「目上の人」や「身分の高い人」への態度とそうでない人への態度には違いがあったけれども、いまはそれが無くなってきている。というのも現代は年齢等を問わず人間が均質化しているからだ、というようなお話をして下さいました。昔と今とでの「時間の流れ方」が違うという話から、どうしてこの話が思い浮かんだのかは興味深いですが、そのとき尋ねることはできませんでした。とはいえここで言われた「人間の均質化」と、ナンシーが「等価性」によって言い表わしている事態は近そうですし、「目上の人」とはある制度や伝統が前提となっていますが、その制度や伝統が民主主義の理念に従って解体された結果、「目上の人」への態度が消失しつつあるとすれば、ここで言及された「人間の均質化」ということが、時間の流れ方の変化や制度の変化と関係することは予感できます。しかし少なくとも筆者には詳しい連関はまだ理解できていませんので、どうしてあの方が時間の流れ方の話題からこの話題を出せたのかが気になるところです。

 

ところで「現在的存在」とは何だろうかという疑問も出ました。これまでなんとなくこの言葉を使ってきて分かったような気になっていましたが、あらためてこの語の意味について尋ねられると戸惑わざるをえません。それは「現在あるもの」のことでしょうか? 筆者が気になったのは、ここで「存在」と言われているのが果たして「もの」を意味するのかということです。というのも日本語で「存在」というとものものしいですが、その原語はしばしば英語でいうところの単なるBeingであって、つまり「ある」ないし「あること」くらいの意味であることがよくあるからです。このようなことを読書会中に述べたのですが、こればかりは原書を当たってみないとはっきりしたことはわかりません。むしろ余計に混乱を招いただけになってしまったような気がします。

しかしこのレポートを書きながら原文に当たってみたところ、「現在的存在」はフランス語の“la présence”の訳語であることがわかりました。英語の“the presence”に対応します。そして手元のロワイヤル仏和中辞典によると、「いること、あること、存在、出席」と言った意味や、俳優の演技に対してはその「存在感、強烈な個性、迫真力」を表すそうです。他方、これまで「現在」と訳されてきた語は“le présent”で、67項の注にあるようにこちらは「存在している、現在の」に加えて「贈りもの、プレゼント」といった意味をもつものです。したがって “la présence”は、“le présent”と形は似ていますが異なりますし、確かに「現在的存在」にはBeingの意味も含まれていますが、それと同じでもありませんでした。むしろ前にゴルフ中継や生放送に対する「臨場感」と言って表されたもののほうが近いかもしれません。

 

また、ここまで来るとやはり読書会中にある方が指摘してくださったように、ナンシーのいう「現在 le présent」を日本語で「現在」と呼びつつづけるのには限界があります。日本語の「現在」はどうしても時間的な位相のみを意識させ、現在という時間(性)において現れてくるもの、フランス語や英語の「現在présent, present」に含まれる“プレゼント”ないし“贈り物”といった意味は失われています。したがってナンシーのいう意味での「現在」について語る場合は、日本語のそれとのニュアンスの違いは絶えず意識しなければなりませんし、もはや“プレゼント”と表現した方が適切かもしれません。

 

さてそれでは、このような「現在」の接近に留意する術とはどういうものになるでしょうか。それは「現実を直視する」ことであるとか、「未来や過去へ逃れ出ることではない」といったこれまでの話を通して、段々とその内実に近づきつつあるのは感じられます。が、それでもまだ十分にイメージがあるとはいえません。あるいはどなたかが仰ったように「現実を直視する」ことこそ、67項の最後の一文でナンシーがいう「別の道を開く」ことであるのではないでしょうか。では、どうすればわれわれは「別の道を開く」ことができるのか?

こうしてようやく今日読む予定だった音読箇所(70ページの冒頭から第一章最後まで)に入って行きました。第一章のクライマックスです。

 



 

70項の冒頭ではまさにさきほど挙げた問い、「別の道を開く」にはどうすればよいかという問いに応答するためには、「等価性とは平等性ではない」ことを理解しなければならないと書かれています。

何かと何かが等価であるとはいかなることか、これについては今まで散々、みなさんで考えてきました。これまで話したことによれば、何かと何かが等価であるとは、それらが互いに交換可能であること、それらが同じ単一のモノサシで測れてしまえること(通約可能性)、つまり評価してしまえること、あるいは特にどちらも価格という名の価値を付けてしまえること、つまり見積もることができてしまうこと、等々と言い換えられました。何事かを未来にある手段として捉えることや、過去を想起させる装置として捉えることは、その当の物事を手段としての利用価値によって評価することを可能にし、同じ価値のものどもを互いに交換可能なものとします。

これに対して、では等価性ではないと言われる「平等性」とはいったいいかなるものでしょうか。平等性が等価性と反対のものだとしたら、何かと何かが平等であるとき少なくともそれらは互いに交換することはできず、また単一のモノサシで互いを見比べることはできません(通約不可能)から、各々を評価することもできず、特に値段を付けるわけにはいきません。――ここまで読んできたことによって、ナンシーのいう「平等性」についてはこうして一通り消極的に推し量ることができます。消極的ではありますが今述べたような「平等性」の一連の諸特徴を、じっさいにナンシー自身も本文の中で述べています。

 

【ここで平等性ということが指し示しているのは、あらゆる人間存在が尊厳の点で厳密に平等だということだ〔...〕。尊厳とは、絶対的に価値を有する価値につけられた名である〔...〕。それは、言いかえるならば、「価値をもつ」ということがなんらかの尺度に基づくということを含むとすれば「価値をもつ」ことのないもの、評価しえないもの、通約不可能なもの〔=共通の尺度のないもの〕という意味での値のつけられないものの名である。】(p. 70)

 

この箇所を読むと分かる通り、「平等性」はより積極的には「尊厳の点で厳密に平等だということ」を意味するようです。ただし――読書会中にも話題になったことですが――ナンシーが「もちろん、あらゆる生き物、あらゆる存在者にとっての、別の種類の尊厳が排除されるということではない」と注するように、彼は人間以外の存在者に対しても「尊厳」ということをいいます(ある方はこの箇所を読んで、ナンシーの視野の広さに驚嘆したといっていました)。しかし、だとすると動物や植物を殺して食べることができなくなるのではないかという興味深い疑問がある方から出されました。これに対して、動物や植物に尊厳は認めるけれども、人間は生きねばならないから殺すのは仕方がない。だからこそ「頂きます」と言うのだ、という意見がありました。しかしそれでは自分の必要の為には他人も殺して良いのかという反論がまた別の方から出されました。極めて建設的な議論が交わされたあと、しかしナンシーの叙述をもう一度よく読んでみると、じつは彼は注意深く、動物やその他の存在者に尊厳は認めながらも、その尊厳の「種類」が人間のそれと異なる可能性を認めています。強調するためにもう一度引用しておきます。

 

【ここで平等性ということが指し示しているのは、あらゆる人間存在が尊厳の点で厳密に平等だということだ――もちろん、あらゆる生き物、あらゆる存在者にとっての、別の種類の尊厳が排除されるということではない。】[太字強調引用者](p. 70)

 

さてそれでは、尊厳の種類について考えることはひとまず置いておくとしても、何ものかに尊厳を認めたり、敬意(p. 68)を評したりすることをもう少し詳しく言えないでしょうか。ある方が言ったように、金を稼ぐ能力や学歴などの評価によってその人の存在を認めるのではなく「その人の存在そのものを認めること」が尊厳を認めることであるとひとつには言い換えることができるでしょう。

あるいはもうひとつの考え方として、あるものに尊厳を認めることとは「単一のモノサシ」でそのものを評価しないことであるということをヒントにすることもできます。つまり尊厳を認めることとは単一のモノサシでそのものを評価するのではなく、(1)自分のモノサシで評価すること、あるいは(2)より多数のモノサシで評価することではないかという意見が前回の読書会では出ていました――というふうに筆者は考え、レポートにもそう書いてしまいましたが、この意見を述べて頂いた方に今回より詳しく聞いてみたところ、どうやらこれらのどちらでもなかったようです。すなわちその方が「モノサシ」という表現を用いて、尊厳について述べたかったのは、あるものの尊厳を認めるとは、<決して自分のモノサシでは測ることのできない価値が存在すること>を認めることでした。<自分のモノサシの限界を知ること>とも言い換えられるでしょうか。

さてそれでは「尊厳を認めること」に関する一番目の言い方(その人の存在そのものを認めること)と二番目の言い方(自分のモノサシの限界を知ること)とは、同じでしょうか異なるでしょうか? 異なるとしたらどの点で異なり、どの点で対立するのでしょうか? 今回はこの二つの言い方の対立を鮮明にしたところまでで時間が切れてしまいましたが、次回はこの点についてもまたさらに議論してもいいかと思います。

 



 

さてこうして、一応一通り『フクシマの後で』第一章「破局の等価性」はすべて音読し通すことはできましたが、最後に指摘した点や、最後の最後にナンシーが言及する「コミュニズム」(p. 71)を含め、まだまだ議論したりない点が多く残っています。次回はこれらについて引き続き議論していきつつ、前回もお話ししたとおり皆さんに書いてきて頂いた文章を題材にまた豊かな対話ができたらと思います。〈3.11以降〉読書会も今年は11月開催でラストです!12月は一度お休みし、来年は1月開催からスタートします。

 

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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