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せんだいメディアテーク
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てつがくカフェ

第34回 「〈かたり〉のチカラ?」

■ 日時:2014 年 6 月 15 日(日)15:00-17:30  ※一部広報では開催時間を「15:00-17:00」としておりましたが、上記時間に変更となりましたので、ここにお知らせします。
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ ファシリテーター:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 協力:みやぎ民話の会「民話 声の図書室」プロジェクトチーム
■ 助成:財団法人 地域創造

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楽しいことにせよ悲しいことにせよ、わたしたちは、なにか自分の理解をはるかに超えた出来事が目の前に広がっているとき、知らず知らずのうちに〈かたり〉という営みをとおして、その出来事をなんとか自分なりに治めようとするものです。それが、とてつもない悲しみである場合にはとくに、その〈かたり〉のチカラに大いに頼ることになります。「もし人が言葉を持たなかったら、じぶんを襲っている感情が喜びなのか悲しみなのか恥ずかしさなのか、そういう区別がつかない」。
せんだいメディテークの館長でもある哲学者の鷲田清一さんは、ガブリエル・マルセルのこのような言葉を引き合いに出しながら、震災による喪失体験などの深刻な感情の揺れ動きには、まずもって「じぶんの言葉」による「人生の語りなおし」という営みが求められるはずである、と主張しています。「感情というのは確かに言葉で編まれていて、言葉がなかったら、感情はすべて不定形で区別がつかない。言葉を覚えることで、じぶんがいまいったいどういう感情でいるかを知っていく。語りがきめ細やかになって、より正確なものになるためには、言葉をより繊細に使いわけていかなければならない。心の繊維としての言葉をどれだけ手に入れ、見つけていくかは、とても大事なことである」。(鷲田清一『語りきれないこと  危機と傷みの哲学』角川学芸出版)震災以降、せんだいメディテークで開催してきた「てつがくカフェ」というこの対話の場も、まさにそういった〈語り直し〉という営みがうまく機能することをいちばんに心がけて活動してきました。また〈かたり〉には、〈語る〉という側面とともに、〈騙る〉という重要な側面があることも忘れてはなりません。それは、あえて虚構の物語を〈かたる〉ことをとおして、目の前にある辛い出来事を〈遣り過ごす(騙る)〉チカラにもなります。どうやら、私たちが慣れ親しんできた「民話(昔話)」には、もともとそういった〈騙り〉のチカラがしっかりと見定められていたようです。1970年代から宮城県を中心に東北地方の民話採訪活動、民話の編集・編纂に従事してこられた小野和子さん(みやぎ民話の会顧問)は、せんだいメディアテークの機関誌『ミルフイユ05 技と術』(赤々舎)に寄せられた文章「ほらくらべ」のなかで、次のように述べておられます。「わたしたちの先祖は『むかしむかし』で始まる虚構の物語を無数に生み出して、愛情をこめてそれを語ることによって、厳しい現実を生き抜く力にしてきたのでした。架空の世界に遊ぶ力が、実は現実を生き抜く支えになることを知っていたのだと思います」。(小野和子「ほらくらべ」、せんだいメディアテーク発行『ミルフイユ05 技と術』赤々舎) 

目の前の現実を自分なりに捉え直すための〈かたり(語り)〉。あるいは、目の前の現実を遣り過ごし、別次元に遊ぶための〈かたり(騙り)〉。震災以降を生きる私たちにとって、いまここで、あらためて〈かたり〉のチカラについて問い直すことには大きな意味がありそうです。今回の「てつがくカフェ」は、「民話  声の図書室」プロジェクト*チームのみなさんとともに、この〈かたり〉のチカラについてじっくりと問い直したいと思います。みなさま、ぜひご参加ください。

 

西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

第34回 てつがくカフェ「〈かたり〉のチカラ?」レポート

写真1

聴き入ってしまった。その〈かたり〉に、である。
それは、静かなはじまりだった。みやぎ民話の会の方々が用意された、民話の語り手の映像*1。映像から伝わる、息づかい。それは、子どもたちを民話の世界へといざなう、〈かたり〉であった。囲炉裏端で膝の上で抱かれながら、あるいは、子守唄代わりに、ふと気づけば聴き入ってしまう物語。わたしたちは、まるで子どものころのように、昔語りに聴き入っていた。

「語ること」は、「聴かれる」ことによって成立しているのかもしれない。

対話がはじまると、参加者のひとりが、そっと口を開いた。わたしたちは、その声をじっと聴く。ときにたどたどしく、ときにつぶやくような、地元の言葉による民話の〈かたり〉を聴き、その〈かたり〉のなかに「入って」いくように。耳をそばだてるだけではなく、うんうんとうなずき、じっと語り手をみつめながら、聴きのがすまいと、いつの間にか身をのりだしてしまう。うなずきながら、聴く。見つめながら、聴く。身をのりだして、聴く。「聴き入る」とは、まさに、身体で〈かたり〉を受け止めることだ。
写真2 写真3
それはまさに、「〈かたり〉のチカラ」であったと思う。対話のなかで、ひとりひとりの〈かたり〉に、わたしたちは「聴き入って」いた。お互いの〈かたり〉を、全身を使って聴いていた。まるであの場にいた人たちは、民話の「語り手」と、「聴き手」のようだった。わたしは、あの場にいた方々の〈かたり〉を聴くことに夢中だった。聴いているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
〈かたり〉のチカラについて、もっと、じっくりと、考えてみたい。てつがくカフェが終わってからも、ずっとそんなことを考えている。
写真4

*1 民話声の図書室DVD『登米市迫町の伊藤正子さんの語り[1]』より「さいしんへら」を見ました。この回は、映像上映をうけ、対話をくり広げていくというかたちで進行しました。

報告:辻明典(てつがくカフェ@せんだい)

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