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てつがくカフェ

第16回「展覧会『螺旋海岸』から考える」(アート)

■ 日時:2012 年 11 月 25 日(日)15:00−17:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい

 

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展覧会『螺旋海岸』から考える
今回は、2012年11月7日からせんだいメディアテークで開催される志賀理江子さんの展覧会「螺旋海岸」から考える「てつがくカフェ」です。志賀さんの展覧会を鑑賞後、参加者の率直な感想を糸口に丁寧に〈対話〉を深めながら、そこから浮かび上がってくる作品のテーマに関する他者の考えに耳を傾け、またそれをとおして編みなおされる自分自身の考えの変化にじっくりと向き合ってみませんか。アート観賞のオモシロさは、まさにそのような楽しみ方のうちにこそ潜んでいるような気がします。みなさま、是非ご参加ください。(てつがくカフェ@せんだい 西村高宏)

今回のてつがくカフェは
参加者間での〈対話〉をとおして、取り扱う(芸術)作品のテーマを粘り強く手繰り寄せ、共有し、それに対する自分自身の考えを逞しくしていく試み。
*アーティストやゲストを招いての作品理解に関するセミナーではありません。またそれは、いわゆる美術評論の立場に立った作品理解や作家論を述べ合う場でもありません(今回の作品で言えば、志賀理江子さんの過去の作品との比較に基づいた作品論や、撮影の技術論などを詳細に議論し合うことがここでの目的ではありません)。議論の方向性が、その場に居合わせた参加者どうしの〈対話〉によってのみ方向付けられていくというライブ感こそが、「てつがくカフェ」の魅力です。
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「志賀理江子 螺旋海岸」について
写真家・志賀理江子が、2008年に名取市の北釜に移り住み、震災を経てこれまでに制作した全作品による展覧会です。昨年度の連続レクチャーやプランの展示を経て、6階ギャラリーの全域に展開した自立する写真群は、土地と共にある暮らしと表現とは何かについて、写真をとおして志賀が探求してきた大きな問いの集合です。それら約240点の作品は多くの困難を抱えながらある現在の私たちの社会に切実な声として届くことでしょう。
http://www.smt.jp/rasenkaigan/
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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

第16回 アートてつがくカフェ「展覧会『螺旋海岸』から考える」レポート・カウンタートーク



今回のてつがくカフェのテーマは志賀理江子さんの「展覧会『螺旋海岸』から考える」ということで、参加者の方々はオリエンテーションのあと、まずは30分ほどの時間をとって志賀さんの個展を見、その後、展覧会会場のバックヤードに設けられたスペースで対話を始めるというかたちになりました。

まずは筆者の感想を述べたいと思います。今回のテーマは、会場と同様、普段とはすこし違った趣をしていました――今回は「震災」を取り上げていないのです。そして扱うテーマが普段とは異なるために、今回のてつがくカフェの「面白さ」にも普段とは異なる面がありました。それが新鮮で、自分も参加者として楽しむことができました。
その〈普段とは異なる面白さ〉とは何なのか、少しは内容にも触れなければなりません。今回は美術作品について語るということでしたが、そもそも美術作品について語るとはいったい、“何について”語ることなのでしょうか。スタッフも含め参加者の方々も、そして参加されなかった方々も、今回のテーマを見ておそらくそのように考えたのではないでしょうか。実際カフェが始まるまで、筆者には見当もつきませんでした。というのも、“てつがく”カフェですから、その作品の技術的な側面については話すことはない。だからと言って、作品の評価について――展示されていた作品が“いい作品”だとか、そうでないとか――の「議論」をする気にもならない(事実それはカフェ本番中も無かった)。では“何について”語るのだろうか。繰り返しますが、カフェの始まる前、筆者にはまったく見当がつきませんでした。
ところが実際にカフェが始まってみると、わたしたちは確かに“何かについて”話していたのです。ただ、それが実際 “何であるのか”、対話が深まるにつれておぼろげながら見えてきたことはありますが、それでも今日の段階ではようやく「問い」を立てられただけです。したがって当然、カフェの初めでわたしたちが“何について”話すのかは全く見えなかったはず。しかも、その時おそらくほとんどの参加者にとっては、それに“言葉”を与えることもできないようなものでした。カフェ後半の勢いと比較すれば、カフェ開始直後に展覧会に対する「感想」を求められたとき、明らかに参加者の大半は戸惑っていた。しかし、そうであるにもかかわらず、3〜4人が発言したあとにはもう、わたしたちは一緒になって、何か“ある事柄”について語り合っているという確信がありました。さらには、参加者の各々が、先行する発言に触発され、あらたに言葉を紡いでいき、そうして皆で語り合っているその“何か”について、“それへ向かって”言葉を重ねていく――まさに“螺旋”階段を昇るように――そういう感触を覚えました。

ただし、わたしたちが話していたのは、志賀さんが作品に込めた意図や動機といった類いのものではありませんでした。とにかく各々がそこにあった作品から“感じたこと”、それを出発点に語っていただけでした。そして、通常“感じること”というのは、人それぞれに異なるとされるものです。であるにも関わらず、なぜか私たちは「ある事柄」について語り合うことが出来ていた。そしてそれが前提となって、参加者が互いの言葉に触発されて言葉を紡ぎ、共有し、「ある事柄」へと向かっていた。震災をテーマに含む場合、「何について話すのか」というのは意外と具体的であったりします(最終的にはそのような具体的なものについての話題に収まるはずもなく、それがまた難しく、そして面白い点でもあるのですが)。ですから、今回生じた対話の流れは新鮮で、個人的にも新たな発見があり、そこで発見したのが、従来のてつがくカフェとは異なる面白さだったのでした。
以下、今回話された内容についてご報告します。

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志賀理江子展『螺旋海岸』をテーマとするてつがくカフェは、今回ともう一回、来月12月23日にも行われます。初回である今回は最初に30分、作品を見て回る時間をとったこともあり、次回があることを前提とした進行となりました。今回のてつがくカフェが到達したのは、(1)展覧会を見ての感想→(2)キーワードの抽出→(3)「問い」の設立、の三つのステップを終えたところまででした。

そこで、まずは(2)のステップで抽出されたキーワードを整理し、それらに関連してどのような感想が出たのか振り返ってみたいと思います。最後に、(3)で立てられた問いをご紹介します。
キーワードをとりあえず列挙してみると、

 

タブー/見えていなかったものに気づく/螺旋・渦/どうつなぐか?/どこまで見たら(作品を)見たことになるのか?/あの世・この世—現実/日常ではないところの世界・真理/既視・幻視/見ることの強制/土地の物語/掘り起こすこと

これらに加えて、キーワードを挙げる段階では目立って取り上げられることのなかった〈祝祭的〉という言葉も、このあとの対話のなかでひときわ目立ったキーワードとして数えられるでしょう。

筆者の私見ですが、これらはひとまず、3つのカテゴリーへと分類できるような気がしました:

A.見ることに関して

〈タブー〉,〈見えていなかったものに気づく〉,〈どこまで見たら(作品を)見たことになるのか?〉,〈あの世・この世—現実〉,〈日常ではないところの世界・真理〉,〈既視・幻視〉,〈見ることの強制〉

 

B.土地に関して

〈土地の物語〉,〈掘り起こすこと〉,〈祝祭的〉

 

C.螺旋に関して

〈螺旋・渦〉

 

他に〈どうつなぐか?〉というキーワードもありましたが、現段階では分類できないほど広い意味があると思われるので、ここでは紹介するにとどめておきます。

もちろん、分類した中にも、領域をまたがるものもあるでしょう。また、そもそも分類するということ自体、何かしら暴力的なところがありますが、次の議論へつなげるための便宜上の手順ととらえていただければと思います。それでは、これら3つの観点からそれぞれの感想を振りかえってみたいと思います。

A.見ることに関して

今回のカフェの第一番目の発言から一貫して、志賀さんの作品に対しては“怖い”,“悲壮感”,“喪失感”,不安“,”もやもや“等々の、どちらかというと「暗い」感想が多く述べられたように思います。ただ、似たような感情を共有しつつも、必ずしもこのようなネガティブな言葉を使っていない方々もいて、そうした人たちは「ドキッとする」とか、あるいは「すっと肌になじむことがない」、「胸がざわつく」といった表現を選んでいました。そして、こうした印象の原因について、各々がひとまず言葉をあてがおうとした時、このカテゴリー Aに入るような諸々の言葉が使われていた――つまり、そうした「胸のざわつき」に対して「見えていなかったものを見たこと」や「どこまで見たら見たことになるのかわからない=いつまで見ても見終えたと思えないこと」、「見ることを強制されること」などが可能な根拠として添えられていました。
さらに、では何を見たのか、あるいは何を“見せられたのか”ということに関して、このカテゴリーのその他の言葉――〈タブー〉や〈あの世とこの世〉(またはその〈あいだ〉,〈はざま〉)、〈現実〉、〈非現実(フィクション)〉、〈日常ではないところ〉、〈見えていなかったもの〉、(キーワードには挙げられていませんが)「具体的なもの」などという、どこか似たような、しかしやはり互いに異なる諸々の言葉――が選ばれていました。
ここで一つ述べておきたいのは、これらのキーワードは同じカテゴリーに分類しましたし、対話の中でも一緒くたに使われる傾向がありましたが、先ほどの「暗い」イメージと、そこまではいかないがやはり胸に何か残る感覚、これらの間には重要な差異があるのではないでしょうか。このことが看過され、両者の感覚を説明するのに、それぞれの話し手がたとえば〈見えていなかったもの〉のような同じ言葉を同時に使ってしまうと、同じ言葉で違うことを意味しながら会話することになってしまいます。ですから、次回は言葉の定義を施すなど、注意を払わねばならないでしょう。
また、会場において、作品が渦巻状(あるいは同心円状)に配置されていることによっても、〈どこまで見たら見たことになるのかわからない〉という印象が引き起こされるのではという意見もありました。



B.〈土地〉に関して

もしかすると、当日参加した方の中には、これとAを分離することに抵抗を感じる人がいるかもしれません。というのも、ここに含まれるキーワードが出たのもやはり、あの「怖さ」や「ドキッとした感じ」、「胸のざわつき」などを説明するためであったからです。しかしながら、筆者には、作品から受けとったこれらの感覚が〈土地〉に関するキーワードによって説明されていたものの、今回の対話の中には明らかに〈土地〉と〈見ること〉という二つの大きな流れがあったように思われてなりません。それらが互いに交わらないにせよ、交わるにせよ。
その理由――〈土地〉に関わるキーワードが他のキーワードから際立っているように感じられた理由というのは、それらが作品の外の文脈への言及をともなっていたからかもしれません。たとえば、作者である志賀さんの住む場所であるとか、彼女の境涯であるとか、今回の展示作品を撮影した場所であるとか。そうしたより広い文脈から、先ほどの「普段は見えないもの」を捉えようとする動きもありました。
ひとつ印象的な描写を挙げるとすると、志賀さんの作品は土着的なものを通り越し、さらにその下を〈掘り起こす〉、そうして今度は特定の土地に限らない、普遍的なものが見えてくる。わたしたちはそれを「見せられている」のであると、たしかこのような意見があったと思います。その一方で、これとは反対に、志賀さんの作品はその土地でなければ撮れなかったものであろうという印象を受けた人もいました。ここから、志賀さんの作品によって見せられているのが“その土地のもの”なのか、“普遍的なもの”なのか、という話の展開もありうるのでしょう。
もう一つ、問いを立てる段階でしばしば取り上げられた重要なキーワードが〈祝祭的〉です。果たしてこれが〈土地〉に関するものなのかという点でも議論の余地はありますが、この語が出たときにはその“土地の”〈物語〉や民話、神話といったイメージが伴っていた、あるいはそうしたイメージとともにこの言葉が使われていた、ような気がしました。なぜこのような歯がゆい言いかたしかできないかと言うと、この〈祝祭的〉というキーワードは、その重要性が多くの人々に直観されたにもかかわらず、それを発した本人にも、それをあらためて取り上げようと発言された方にも、うまく内容を捉えて述べることができなかったから。今回のてつがくカフェではまだ、作品から読みとれる〈祝祭的〉なイメージは最大でも、土着的なものを呼び起こすようなものとしてしか捉えられなかったということでしょう。この語の本当の意味の解明は、当然、次回にもちこされます。
ファシリテーター:西村高宏さん

C.〈螺旋〉に関して

ここに含まれるキーワードは、今回の対話の初めの話題において用いられていました。〈螺旋〉という言葉は展覧会の題名にも含まれていますから、何かしらかの重大な意味が込められていると言ってよいでしょう。初めに発言された何人かは、なかなか感想が言葉にならない段階で、この切り口から『螺旋海岸』に対してひとつの見通しを与えようとしていました。
この語に関しては主に二つのことが話題となりました。一つは、渦巻との違いについて。もう一つは、「螺旋」という言葉の引き起こすイメージについて。後者にはたとえば「ねじ」、「ラ音」などが挙げられていました。さらに「ねじ」には、食い込みながら“穴”をあけるというイメージが付随するとも(注)。
会場の作品群は、床の上に渦を巻くように配置されていたと言えます。しかし、展覧会の題名に含まれるのは、あくまで「螺旋」の語。このことから、最初に〈螺旋〉を取り上げた方は「(展示空間に表現されているのは)螺旋ではなく渦ではないか」という問いを発していました。中心へと巻かれながら、同時に三次元的な、上下への動きがないのであれば螺旋ではなく渦巻だろうという見解です。作品の立つ地場は、物理的には平面です。どこにその三次元的な要素が感じられるのか、それが関心の一つにもなっていました。
実はその次に発言された方が、それに対するヒントともとれるものを提示していました。その方はまず、作品群を具体的なイメージのものと抽象的なイメージのものとに振り分け、またその他に“よくわからないイメージ”もあると話していました。そして、渦巻の外側には具体的なイメージのものが、内側に行くほど抽象的なイメージのものが配置されていると。この、具体から抽象への“上昇”こそ、三次元的要素の一片なのかもしれません――その方は、具体的イメージを代表する石のモチーフには、塵へと分解される「縦のイメージがある」と話していました。これは、三次元的な要素を念頭において発言していたのではないでしょうか。



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ここまで、今回のてつがくカフェで話し合われた感想と、そこから抽出されたキーワードを筆者なりにご紹介しました。最後に、これらの感想やキーワードを踏まえて立てられた問いをご紹介し、次回へつなげたいと思います:

今回のカフェで立てた「問い」

•日常で見落としているものは何か?
•土地に根付く 見えるものと見えないものは何か?
→土地に根付くものをさらに掘り起こした先に何があるか
•日常から離れて見えてきたものを活かして我々はどう生きるべきか?
•タブーの“根っこ”はどこにあるか?
•人が 写真を見る とはどういうことか?
•この胸のざわつきはどこからくるのか?
•そもそもどの写真が既視/幻視か?
•怖いもの見たさはどこからくるのか?
•手に負えないものをどう考えていくのか?


本レポートで筆者が試みたキーワードの分類は、上記の問いには適応されません。というのも、わたしたちは共に「ある事柄」についての問いを立てたのですから。

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)



注:螺旋/渦巻の語義について
『広辞苑』では
螺旋=①螺(にし)の殻の線のように旋回した筋。②捻子(ねじ)に同じ。
渦巻=螺旋状に巻いた平面曲線の形。
またウィキペディアの「螺旋」の項目では、螺旋と渦巻きの語義の違いについて触れている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/螺旋

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板書のまとめ

※写真をクリックすると大きくなります。

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◎ 第17回 展覧会『螺旋海岸』から考える」カウンタートーク 



カフェ終了後に行ったスタッフによる延長戦トークです。以下より視聴できます。

ゲスト:志賀理江子(写真家)


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展覧会『螺旋海岸』の感想ツイートなどのまとめ

http://togetter.com/li/422728

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