考えるテーブル

お問い合わせ

せんだいメディアテーク
企画・活動支援室
980-0821
仙台市青葉区春日町2-1
tel:022-713-4483
fax:022-713-4482
office@smt.city.sendai.jp
←前のページへ

てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第3回

■ 日時:2013 年 6 月 22 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

————————————————————
この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

 

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。さしあたり目標とするのは、この本の第一章「破局の等価性」を読み切ることです。

 

フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社

第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
第二回目までで第一章「前文」を読み終えました。第三回目からはいよいよ本文に入っていきます。第三回目のはじめに本文全体の骨子を全員で確認してから読み進めていく予定ですので、次回からの参加も可能かと思います。また、参加者の方々にはぜひとも対話に参加して頂きたいと考えていますので、課題本を入手して、予め該当の章を読んで来ていただくことが必要になりますのでご了承ください。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

 

「震災を読み解くために」読書会の理念

私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

————————————————————

てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第3回レポート

前回の読書会までで、第一章「破局の等価性」の「前文」を読み終えたところでした。前回までは頭から一文一文、声に出して読みながら、そのつど気になった個所や問題含みな個所についてみんなで話し合うという仕方で進めてきましたが、今回は思い切って、今までとは異なるやり方で進めてみました。というのも、前回までのやり方で本文を読み進めていくと、本文は特に一か所ごと書かれてある内容に含蓄があり過ぎて、それらについて議論をしているうちに私たちがそもそも何の話をしていたのか、何の話をしたかったのかがわからなくなってしまいそうな気がしたからです。参加者全員が議論に参加するためには、なによりもまず議論の主題がきちんと共有されている必要があります。

ですから今回は本文の音読はせず、まずは用意した本文第8節までのレジュメを確認していきながら――このレジュメの内容についても、その都度わからない個所があればおおよその理解が得られるところまで議論をしつつ――第8節までに述べられていると思われる、ナンシーの“現状分析”の全体的な骨子を確認しました。「破局の等価性」が全体として何を問題にしているのか、何をしようとしているのか、まずはそれを参加者全員でとりくむ主題として共有しておけば、その都度「何を話しているのか」も明確にしやすいはずです。

レジュメにも書きましたが、「破局の等価性」第八節までの流れはおおよそ次のようになっていると考えられます。ナンシーはまず、ヒロシマ、アウシュビッツ、フクシマという三つの名に共通するものを探っていきます。それはおそらく、もしもフクシマが単に偶発的な、一回性の出来事ではなく、現代文明全体の特徴を範例的に体現する出来事であり、ある意味「起こるべくして起こった」のだとするならば、フクシマから見出される事柄はフクシマだけに当てはまるようなことではなくて、他の二つの名や、さらにはそれ以外の諸々の事象にもまた当てはまる事柄であるはずだからです。そうしてこれら3つの名に共通するものを探っていった結果、「計算不可能性」や「等価性」といった言葉が取り出されてきます。じつはこの二つの言葉が現代文明全体の布置を特徴づけるものであり、だからこそあの三つの名で表された悲劇や破局に共通するものも、これら二つの言葉によって言い当てられたのです。


*(以下の項目番号はレジュメの項目の番号と対応しています)*

1.まずはヒロシマとアウシュビッツの共通点が探られます。種々ありますが、ここで本質的な点は次のことです。すなわち、「ヒロシマとはなんであったか」とか「アウシュビッツとはなんであったか」とかを理解しようとすれば、それはこの「世界の存在からは独立した領野」からしか理解できなくなるということです。
読書会の中で出た例でいえば、たとえば「アウシュビッツ」を理解しようとすればそれは、ユダヤ人を嫌悪するような、ヨーロッパの伝統に属するあるイデオロギーや観念(これらは当然、この世界の中に存在するものではありません)のために為されたことだ、というふうに理解されなければならないということです。「アウシュビッツ」を引き起こしたもの、「ヒロシマ」を引き起こしたものが実際になんであるかはこの本だけから確定できることではありませんが、それでもこの世界のどこにも無いか、あるいはこの世界の中には対応物を持たない観念からしか「ヒロシマ」や「アウシュビッツ」がなんであるかを理解することができないという点が、これらの名に共通する事柄です。これに関連して、「脱-名称化」についてレジュメの(*3)で書いておきましたので、脱-名称化についてはそちらを参照してください。加えて、この世界を超えたところにある目的に仕えるからこそ、ヒロシマやアウシュビッツといった出来事は「非人間的」な様相を帯び、「生」そのものが「不幸そのものよりもひどい状況へと突き落とされる」ことになったのではないかという点の指摘もしていただきました。
要するに、ヒロシマやアウシュビッツで人類が犯したあの非人間的な振る舞いの動因は、それ自体非-人間的な、つまり人間から自立してしまったある観念、イデオロギー、目的であったと言えるでしょう。ヒロシマやアウシュビッツの問題性は誰もが認識するところですが、その問題性の本質は、人間から自立し、しかも人間を突き動かすような目的が創設されたことにあるのです。アウシュビッツとヒロシマとの比較を通じて、それら両者を引き起こした目的・観念とそれが持つ「力」の存在が浮き彫りにされました。
読書会の様子
読書会の様子

2.ヒロシマとアウシュビッツは確かにある共通点を持ち、またそれらの出来事が文明の抱える問題を表していることは誰の目にも明らかです。しかしフクシマはどうでしょうか。たしかに原子力エネルギーという点でヒロシマと共通する点があるにせよ、一方は民生用、一方は軍事用という無視しがたい差異があります。「ヒロシマの後で」ではなく「フクシマの後で」、哲学が何を語りうるのでしょうか。
ここでナンシーは、この「後で」を問うということは「次に何が来るか」を問おうとするものではないことに注意を促します。この「後で」は「予期」というより「宙吊り」にかかわるのです。これを踏まえ、第4節の冒頭、ナンシーはこの論考の中心的な「問い」を定式化しますが、筆者自身も、また参加者の方々にとっても、この問いに対しては戸惑わざるを得ませんでした。というのも関口涼子の日記から引き継いだ「とりかえしのつかないもの」(p. 39)とはいったい何のことなのかつかめなかったからです。そこで、レジュメの内容の確認を中断して、第4節冒頭のこの「問い」について少し時間をとって議論しました。結論から言えば、今回この問いが何を問うているのかはあまり明確にすることができなかったので、次回以降も問題にしていければいいと思うのですが、ひとつの意見をここで紹介しておきます。それは、「とりかえしのつかないもの」とは文明の「産物」ないし「結果」のことを言っており、たとえばフクシマを取り上げれば、フクシマを問題にすることとは文明を問題にすることでもありうるし、(文明の産物としての)原子力発電所の崩壊や放射性物質による汚染を問題にすることでもありえます。
ところで、ここで文明全体を問題することの是非も問われなければなりません。一方は軍事用原子力、他方は民生用原子力であるというあの差異があるかぎり、ヒロシマとフクシマとを安易に近づけることはできないのです。そこでナンシーは、ヒロシマとフクシマに見出される差異(軍事/民生)は絶対的なものではないということ(つまり一方における問題は他方における問題でもあるということ)を強調します。またそこからさらに踏み込んで、原子力エネルギーを取り巻く問題は単に原子力エネルギーに固有の問題ではなく、文明全体が絡む問題であるということも指摘しています。というのも、たとえ原子力エネルギー固有の問題が技術的に解決されたとしても、それはまた他の技術を必要とし、その技術は新たな制約を生み出したり、またその技術も原子力エネルギーもますます人間から自立した力を行使したりするようになるかもしれないのです。そうなれば、今まさにわれわれが「崩壊した原子力発電所」の対処に追われるのと同じように、新たに登場する「自立した力」への対処に追われることにもなりかねません。ヒロシマとフクシマとは原子力エネルギーという点で共通するといわれましたが、その原子力エネルギーを取り巻く問題は、じつは原子力エネルギーに固有の問題であるわけではなく、文明全体に波及するものだということ、したがってヒロシマとフクシマが共有する問題も、ヒロシマとフクシマだけに当てはまるものではないということになります。フクシマがヒロシマに付け加えるのは、ヒロシマ以来、あるいは第一次世界大戦以来何人かのひとびとによって幾度も予感されてきたこと(あるいは「しっかり見られていた」こと)――人間自ら「歴史の終わり」、「人間の終わり」をもたらすことができるということ――は、原子力の軍事利用のみに依存するのではなく、さらには原子力の利用全般にのみ従属しているのですらないということです。
とはいえ、原子力の利用、特にその軍事利用には、現代文明の布置の概観が示されています。抑止戦略として導入された原子力兵器は、「恐怖の均衡」を生み出すことを目的とします。というよりも、「恐怖の均衡」それ自体が、「恐怖による脅威の主体となろうとする欲望」(p. 45)を刺激し、その欲望におされて各国家は争って核兵器を持とうとします。そして核兵器の保有によって他国にもたらすことのできる「恐怖」は、「ただそれのみで働くのであり、なんらかの関係を巻き込むことはない」(p. 46)のです。この点について、ある参加者の方がおっしゃった「シーソー」のイメージを使うと理解しやすくなります。シーソーは両端に座っている人の体重が釣り合うと水平になって、「均衡」が訪れますが、核兵器はそうではないのです。つまりこの場合は、ある二か国が保有する軍隊の兵力や軍艦の数等々の「軍事力」が両国で等しく、“釣り合う”から「均衡」が訪れるのではなくて、たとえ軍事力に大きな差があったとしても、それとは無関係に、核兵器が生み出す「恐怖」が両国の間に「均衡」をもたらすのです。たとえ北朝鮮とアメリカの軍事力には大きな差があったとしても、それにかかわらず、核兵器が他国に生む「恐怖」によって北朝鮮はアメリカと同じ交渉のテーブルに着くことができるのです。「シーソー」との対比を通して、恐怖によってもたらされる「均衡」の異常さが理解しやすくなるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、この異常な均衡状態にある諸々の力は互いに関係を持っていません。この時、力と力との間にあるのは「関係」ではなくて「等価性」である、とナンシーは言います。
また、原子力兵器は「絶対的な力」であるとも言われています。「というのも、一瞬のうちでの破壊が可能になるばかりか、あらゆる生物、水や土壌、鉱物に対し非常に長きにわたって破壊ないし損害をおよぼすことが可能になるからである。」(p. 46)この力を行使しようと決断する人間は、その決断の効果を決して計算しつくすことができません。広島に落とされた原爆の「効果」を、アメリカ軍はそれを落とした後で調べに来ました。原子力発電所から飛散した放射性物質が、周囲に住む人々や動植物に与える影響を誰が算定できるのでしょうか。
ここで取り出された「等価性」と「計算不可能性」が、現代の文明の布置を特徴づけるものです。これらの語がどのような意味を持つのか、第6節、7節でさらに詳しく論じられていきます。

3.「等価性」と「計算不可能性」について本文の中で述べられていることはレジュメに書いた通りですが、まずは「計算不可能性」について、今回の読書会の最中に出た話題を振り返っておきます。まず主題となったのは、通約不可能と計算不可能とはどう違うのかという点です。通約不可能であるものは計算可能でも計算不可能でもないと言われているので、通約不可能性についての理解が計算不可能性の理解に直結します。その逆もまたしかりです。
「通約不可能性」について議論し始めるまで、どうやら参加者の多くのが、それがどういうことかよくわからないでいたようでした。そこでひとまず「通約」で辞書を引くと、「約分」と同じ意味だとありますが、一方辞書によっては、哲学の用語として「通約不可能性」という項目も載っています。たとえば広辞苑では「T.S.クーンの用語。科学革命において交代した新旧パラダイムの間には、それらの優劣を判定する共通の評価基準が存在しないこと」とあり、読書会中はこの科学哲学の文脈における「通約不可能性」をヒントに、ナンシーがここで「通約不可能」と言っているのは「優劣を判定する共通の評価基準がない」ことだと理解してみました。すると、たとえば種田さんと線引さんという人たちがいたとして、本来、彼女らに優劣をつけることはできません。「そうさ 僕らは 世界に一つだけの花」(『世界に一つだけの花』槇原敬之作詞作曲)なのです。このときに、種田さんと線引さんは互いに「通約不可能」だといえるのではないでしょうか。
しかし、ここで簡単に本来、優劣をつけることができないと言ってしまいましたが、これについては立ち止まってよく考えてみる必要があります。というのも、いまやわたしたち人間でさえ、成績や年収、容姿や性格などで、むしろつねに優劣をつけられているように思えるからです。いわんや動物や植物などはより通約可能で計算可能なものだと思われてしまいがちでしょう。たとえば、牛は何頭で何百万円、トウモロコシは一本何円と、値段という名の「価値」がつけられ、どちらがどれほど優れた「価値」を有するかということは容易く判断されてしまいます。現代においては、ナンシーが「通約不可能なもの」が当てはまる例として挙げた諸々のカテゴリーに含まれる対象も続々と「計算」の対象となり、互いに「優劣」のつくものとして評価されています。その過剰への反動として「僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?」(同上)という歌詞が一時期共感を呼んだことにも頷けます(いまやこの歌さえも「時代遅れ」と言われ、ときには人間が「オンリーワン」であるわけがないとさえ言われたりもしますが)。われわれの置かれたこうした状況が、優劣がつけられないもの、「通約不可能なもの」と言われているものをイメージしにくくしてしまったのだと思います。では、この状況を踏まえたとき、人間や動植物や鉱物、神的なものなどはほんとうに「通約不可能なもの」なのでしょうか。あるいは、もしそうだとするならば、なぜそれらは「通約不可能なもの」――本来、優劣をつけることができないもの――なのでしょうか。これについては次回以降も考えていく必要があります。
とはいえここまでの議論によって、「通約不可能性」や「計算不可能性」についての理解は大分深まったように思います。まとめると、AとBとが通約不可能であるとは「それらの間に優劣をつける評価基準がないこと」であり、通約可能なものはその反対です。そして通約可能なものは、その優劣を数値に表すことができそうです。特に、各々の「価値」を“値段”として数値で表せば、ほとんどすべてのものに「優劣をつけて」しまえそうです。そうやって、通約可能なものは「計算」の対象となりえます。ところで、「通約不可能性」と区別される限りでの「計算不可能性」の「不可能性」は、計算しきることができないという意味での「不可能性」であり、けっして計算の対象になりえないことを意味するのではありません。たとえば本文中にあるように、「人口」や「消費エネルギー量、実際の輸送量、生産物の量、登録された特許件数」、「契約締結件数」などは計算の対象にはなりえますが、計算不可能なものです。しかしけっして、通約不可能なのではありません。A国の人口はB国の人口よりも多いと言うことができます(ところでこのときも人間が計算の対象として扱われています)。
次に「等価性」ですが、今回の読書会中にこれについて理解しつくしたとは必ずしも言えません。次回も引き続き議論していきたいと考えていますが、とはいえ、筆者自身も含めて、今回の対話を通して読書会開始時よりも「等価性」についての理解が格段と深まったことは確かです。まずは、ある参加者の方が「考えるテーブル」に描いてくださった図を紹介したいと思います。その図は、レジュメの【等価性】の項目で二番目に引用した個所で述べられているような「樹枝化」を等価性が統べるその様子をとらえたものです。その方はそれを、下の図のような形で組み立てられたマッチ棒の塊としてとらえました(ただしこの図そのものは「フラーレン」の原子模型です。Wikipedia「フラーレン」の項目から画像を拝借)。
「フラーレン」の原子模型
「フラーレン」の原子模型

そして、このマッチ棒の塊のように、現実の世界のさまざまなものも微妙な均衡を保ちながら互いに支えあい、関係しているからこそ、ある一か所(たとえば原子力発電所)が“抜け落ちる”ことで、この模型全体が崩れてしまう(それは破局的でしょう)、あるいは少なくとも全体の形が変形されてしまうといったことが起こるし起こりうるのだと、ナンシーは「等価性」という概念を介して言い表そうとしているのではないかということです。等価性が事物を統べる様子をこのイメージで捉えるのには筆者自身も同意するところです。しかし当然次には、この“マッチ棒”の“棒”の部分、つまり個々のモノが何によって結びついているのか、個々のモノを結び付けているものがどのような性質で、どのようにしてこの“塊”を形成しているのかが問題になってきます。それを考えたとき、レジュメの【等価性】の最初の黒丸で引用したように、「自分自身で自分自身を統治する力が有する性質」がまさに等価性であるのだから、ここで「自分自身で自分自身を統治する力」と言われているものが様々なもの同士を結び付け、互いに依存させあっているのではないかと考えられます。
そこで、例としてナンシー自身によって挙げられている医療の領域における「樹枝化」や、自動車を取り巻く「樹枝化」においてそれらを統べている「等価性」ないし「力」とは何かを考えてみることにしました。
臓器移植の場面を考えてみたとき、ひとに臓器移植を迫る「力」とはなんでしょうか。ある方は最初から、的確にもそれは「圧力」――もっと詳しく言うと、周りの人間が当の人間に移植するよう強いる「圧力」――ではないかと言い換えてくださいました。この「力」が、臓器の一部に失調をきたしたひとに臓器移植を強いる力であり、また臓器移植のための免疫を増進する薬を投与させる力であり、その薬の副作用を抑えるためのまた別の薬を投与させる力であるのではないかということです。ところでこう考えたとき、臓器移植を受ける患者の周りの人たちは、なぜそのような「圧力」を当人にかけなければならないのでしょうか。
ただし、自分の子どもの命がかかっているような場合や患者自身がまだ生きたいというような場合、患者当人が移植を求められたり、求めたりするのは「圧力」――ここでそれは、他人から強いられたり、他人に強いたりするような力として解していますが――とは言えないような気がします。移植の場面を考えると、このような“例外”が多くて、「圧力」について考えにくいように思えます。そこで、場面を移して、「延命治療」の場面を想定してみます。たとえば、かなりの高齢で、意識も朦朧としながらただただ寿命を延ばすためだけに「胃瘻(いろう)」によって栄養を直接胃に与えられ、生きながらえているような患者にとって、そうした延命治療は果たして「善い」ことでしょうか。必ずしもそれが悪いことだと断定することもできませんが、このような延命治療が誰のためにもならない、誰にとっても「善い」こととはなりえないケースは明らかに存在しえます。そしてこのケースにおいて、延命治療のためにとられる処置や家族の決断、患者自身の生き方はすべて、誰のためにもならないにも関わらず行われているのであり、十分“強いられたもの”であるとみなせます。先ほどの方がおっしゃってくださった「圧力」は、このようなケースにおいてこそ明瞭に見て取ることができます。そして、このような場面で働く「圧力」は、明らかに人間の手から離れ、逆に人間に対して自らを行使する「力」であり、したがって≪自分自身で自分自身を統治する力≫であると言えます。ところで、この「圧力」はいったいどこから来るのでしょうか? 先ほどとはまた別の方が、この点に関して、核心をつく発言をしてくださいました。それは、このようなケースでさえ人々が延命治療を強いられるとすれば、それは延命治療が「こういった症状にはこういった処置を」などといったマニュアルや規則、あるいは法律に従って施されるからであり、つまり「圧力」の源泉は、習慣や制度ではないかというものです。延命治療を強いるような制度があるとしたら、それは「政治的な力」と呼べるでしょう。いっぽうで、もし医者が患者家族から治療費を搾り取るためにわざと延命治療を施しているとしたら(完全に架空の設定ですが)、その医者はやはり資本(財産)を増やすためにそうしているのであり、今度は資本という≪自分自身で自分自身を統治する力≫の代表とも言うべきものがむしろ医者を動かしているのです(この医者が理想的な資本家であれば「なぜそうまでして財産を増やそうとするのか」という質問に最終的な答えを返すことはできません。けっきょくのところ「財産を増やしたいから」としか答えられないでしょう。このときには医者が資本(お金)に「動かされている」とレトリック以上の意味で言えるでしょう。)そしてこの場合に働いているのは、「経済的な力」です。
しかしいま(も昔も)、政治と経済の領域は密接に関係しています。延命治療を強いる制度が、医者から政治家に流れる政治献金によって成り立っているとしたら(これも全くの架空の設定ですが)、さきほど二つの異なる設定で見出された二つの「力」――「政治的な力」と「経済的な力」と呼んだもの――は実は同じ「力」であったことになります。そして再びあの引用に立ち返ってみれば、こうした「力」の持つ性質が「等価性」と呼ばれたのでした。
ここまでで大分、ナンシーが「等価性」と呼んでいるもの、そしてそれがどのようにして「樹枝化を統べている」かが掴めてきたように思いますが、引き続きさらに、“車”を取り巻く「樹枝化」についても考えてみました。つまり、車に次々と安全装置を取り付けさせる「力」とはなにか、あるいは電気自動車が普及せずいつまでもガソリン車ばかりを走らせる「力」とはなにかについて考えてみました。すでに医療の領域についての考察を経ているので、車の例は考えやすくなっていました。端的に言うと、この場合もやはり資本、お金の「力」が働いていると考えるのが一番わかりやすいでしょう。電気自動車は高いからガソリン車を買ってしまうのだし、車の製造メーカーのほうでも、より安全な車ほど売れるから次々と安全装置を取り付けようとするのです。ところで、なぜ消費者はより安全な車を買うのでしょうか。この問いを読書会中に投げかけることができませんでしたが、とにかく安全なほどいいという、安全性そのものが目的になっているとしたら、今度は「安全性」が自立した力を持ち始めるように思います。さらに安全性を求めるのが、とにかく寿命を延ばすためだとしたら、延命治療を選択する家族を動かす「力」がここでも消費者により安全な車を選ばせています・・・。
さしあたり今回の読書会では、こうした具体的な諸例において、そこで等価性と呼ばれる性質を保持するような「力」を発見していくことによって「等価性」とは何かを考えていこうとしました。結果、そうした「力」は様々な場面で発見され、しかも個々の場面で見出された各々の「力」が互いに見分けがつかなくなっていってしまい(いつも“お金の力”が見出されました)、「等価性」という概念の適用範囲の広さに愕然としたところで時間が来てしまいました。レポートを書いていて気が付きましたが、今回の読書会での議論の中にも既に、そこから「等価性」の核心をとらえうるような所見がたくさんありそうです。とはいえ、今回具体例を重ねて考えてみたところではまだ、「等価性」という概念の全体をつかんだという実感は得られなかったと思いますので、次回も引き続き、この「等価性」について議論を重ね、より理解を深めていきたいと考えています。
4.レジュメの最後は、時系列でいうとじつは、すでに紹介した「等価性」についての本格的な議論に先行して確認してありました。第8節ではこれまでに浮き彫りにされた現代文明の諸特徴――「等価性」と「計算不可能性」、加えて、等価性によって統べられた諸事物の「全般的相互連関」――を「フクシマという出来事が範例的なかたちで体現した」ということ、そしてその諸特徴をいわば「純粋状態」で合わせ持つのが「貨幣技術」だということが述べられています。マルクスが貨幣につけた「一般的等価物」という呼称が表すのは、レジュメでも引用しましたが、「あらゆる生産物は等価であり、交換可能で転換可能性というかたちで規定される価値へと、一切の価値が全般的に吸収されるという原則」(p. 56)です。そしてどうやらナンシーは、この原則を経済の領域よりさらに押し広げ――というより「制限を解除し」、と言うべきでしょうか――「一般的等価性」について思考しようと試みているように思います。しかしこの拡張がどのような点で為されたのかは、まだ筆者自身も、読書会参加者もわかりかねるところでした。
テーブルに書かれた図
テーブルに書かれた図



第8節以降、つまり第9節と第10節には、それ以前で「問題」として確認された現代文明の布置とそれが持つ特徴を踏まえたうえで、そのうえでナンシーがわれわれに何を喚起しようとしているのかが書かれているはずですが、それを理解するには当然、現在の文明の何が問題になっているかを理解していることが前提になります。また、それどころか、当の問題の本質的な理解は、その“解決”を自ずと見えるようにしてくれるはずです。(ただし、“解決”と言っても「より善くする」という志向を振り切った意味での“解決”でなければならないとナンシーは言うわけですから、この言葉づかいには注意が必要です)。したがって、今回は第8節までの骨子を確認した後も、引き続き第8節までに為された“現状分析”の内容をしっかりと理解することに集中しました。それですでに紹介したようにして、「計算不可能性」や「等価性」についての様々な議論を交わしていきました。

今回はできませんでしたが、次回はぜひ第9節と第10節を音読していきたいと考えています。単純に味わい深い文章だというのが主な理由です(筆者がこの個所を最初にこの2節を読んだとき、内容も理解していないのにやけに感動したところなのです)。最後の二節を読めば当然、ナンシーが最後に描く“解決”ないし“結論”についての疑問が噴出するはずですから、それをきっかけにして第8節までの“現状分析”を振り返りつつ、「等価性」についてさらに議論を重ねつつ、今回よりもさらに、ナンシーが我々に喚起しようとするものについて理解が深められればと思います。

第3回311以降読書会資料1(PDFフファイル32KB)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい

この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、他の人々と共に読むということを最大限活かし、一つの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。さしあたり目標とするのは、この本の第一章「破局の等価性」を読み切ることです。

トピックス