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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第6回

■ 日時:2011 年 9 月 28 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。

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フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社

第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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「震災を読み解くために」読書会の理念

私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第6回レポート

6_写真1

今日は前置きもそこそこにして、早速第10節の冒頭から音読していきました。まずは冒頭の一段落(といっても2ページにわたりますが)です。

音読をしたあと、音読して下さった方に読んだ箇所について思うところを尋ねてみたところ、その方は次の一文に着目してそこが気になると言ってくださいました。

  • 「この非等価性が存在するのは、こうした特異的なもの――色や音や匂い――へと注意が向けられることによってである。」(p. 67)


 

これまで話してきたのは「等価性」についてでした。ここでまさにその反対の「非等価性」について、それが「色や音や匂い」といった“感覚的なもの”に関わり、そしてそれらが「特異的なもの」であるといわれていることが気になったそうです。

とはいえ「どういうふうに」気になるのかはなかなか言葉にしにくいところです。したがって、ナンシーの真意を探るには翻って「等価性」とはなんだったのか確認すべきでしょう。「等価性」とは何であり、どんなものに存するのか分かれば、「非等価性」が“感覚的なもの”と関係するわけも知れそうだからです。それで、とりあえず前にも触れた48ページや50ページを見てみたわけですが、やはり「等価性」も「何々である」と一口に言えるものでもありません。ただ、原爆や原発、一般に「自分自身を自分自身で統治する力」が有する性質であるとか、「貨幣」がまさに「等価性」という特徴をもつことなどは思い出せました。かといってそれで「非等価性」が“感覚的なもの”とかかわる理由がわかるわけでもありません・・・

 

ところで――少し視点を変えて――この段落で主に書かれてあるのは「現在」についてです。そういえば前回9節を読んだ時に問題となったのは次の箇所でした。

 

  • 「逆に決定的なのは、現在において思考すること、そして現在を思考することではなかろうか。」(p. 64)


「現在において思考すること、そして現在を思考すること」をここでナンシーは「喚起」していますが、しかし前回、この文がどういうことを言っているのかわからないままでした。今日読み始めた10節冒頭の段落はまさにその「現在」についてナンシーは解説してくれているのです。では、いまちょうど音読した段落で「現在において/を思考すること」の意味はつかめたかどうかといえばそれも怪しい。けっきょくのところナンシーのいう「現在」とは何なのか?

とりあえず10節の冒頭でナンシーは、彼のいう「現在」が何でないかを述べてくれています。それを踏まえていくつかの発言が出てきました。以下のようにまとめられると思います。

a)     ナンシーのいう「現在」とはいつからいつまでのことか?

b)     「現在を思考する」とは要するに「無計画であれ!」と言っているのか否か

c)     計算してしまうのが問題なのか

d)     もし「計画」して「未来」を志向・思考することを否定するなら文明は不可能になるように思える。ナンシーは文明を否定しているのか?

 

まず「即自的なものとしての現在のことではない」(p. 66)と述べられていますから、この瞬間、たとえば9月28日11時56分という意味での「現在」でないことは確かです。つまりナンシーは「この瞬間についてだけ考えろ」とだけ言っているわけではない。

他方で第8節までに未来の目的や理想を志向する姿勢がネガティブなものとして(例えばナチスのイデオロギーを例として)描かれてきたのであれば、「計画」といった行為も否定することになるのではないか。ある方はそう発言して下さいました。また計画とは未来の資産や成り行きを「計算」することだとすれば、確かにナンシーは「計算不可能なものが、一般的等価物として計算されることになる」(p. 56)ことを「われわれの文明の法則」とし、その文明をまさにいま問題としているところですから、「計算」そして計画をナンシーはネガティブなものとして捉えているようにも見えます。ということは、ナンシーが言っているのは要するに「無計画であれ!」ということなのでしょうか? しかしそれもまた極端な主張であるようにみえます。

ここでもうひとつ、違う観点からの発言がありました。そしてそれはより本文の内容に近いように思えます。すなわち、ナンシーは計画を企てようという姿勢そのものを「問おう」としているのであって、「否定」しているわけでも「肯定」しているわけでもないという発言です。だから「無計画であれ!」「この瞬間だけ考えろ!」などという分かりやすい警句は本文のどこを探してもなかったのでしょう。哲学書の回りくどさにもちゃんと理由はあるのです。

さらにその発言者の方が付け加えるに、したがってナンシーのいう「現在」とはいまの文明の布置――目的と手段の連鎖に絡め取られあらゆるものが等価性によって相互にむすびつけられているところ――から(「問う」という身ぶりで)離脱して、いまある文明とはまったく異なる文明、まったく新しい文明の到来ないしプレゼントを受け入れうるところであるということです。われわれがその場所に身を置けるかどうか、あるいは「誰かが自らを現わす」(p. 66)という出来事に対して身構えていられるかどうかをナンシーは問うていると、私が完全に理解して記憶できたわけではないですが、大体このように発言して下さっていたように思います。

この意見に従えばナンシーのいう「現在」とは瞬間でないどころか「いつからいつまで」と問うこともできないものです。「いつからいつまで」と問うことのできる現在はおそらく、ナンシーのいう「時間測定的な現在」(p. 66)でしょう。またナンシーは「文明」を否定しているというよりもいわばその“外”、あるいはその影響をも見据えることのできるところでの思考を促していることになります。

いまの発言に先だって「特異性」と計画ないし想定の関係に着目してくださった方もいました。計画を立てたりリスクを想定したりして安全対策を施すことは自ずと「想定外」を規定することになるという発言があった後に、その方は「想定外」もやはり想定の「外」として想定されているようなものだから、「特異性」とは想定外の事態ともまた異なるのではないか、というような趣旨の発言をして下さいました。確かに「想定外」というのは予期や計算、計画を前提として言えることですから、「現在」における特異的なものは想定外のものとは異なると考えられます。



ここでもう二段落音読を進めました。そこに書かれてあるのは、いま言及した「特異的なもの」に対する「崇敬(adoration)」や「強い意味での敬意(estime)」についてです。それらがあるとき、「非等価性」もまた存在するのであり、また敬意(estime)とは見積もり(estimation)や評価とは反対のものであるとも述べられています(p. 68)。

見積もりや評価の対象となるということは、計算の対象になることですが、それはその対象を他のものと等価に扱うことにつながります。ある方が良い例を出して下さいました。たとえば人材をTOEICの点数やその他の試験の点数のみをみて選ぶ場合、もし二人の人物が同じ点数をもっているのなら、採用する側にとって彼らは「どちらでもよい」存在であって、その限りで彼らは交換可能であり互いに「等価」であるといえます。あるいは動物や植物やパワーストーンの値段を計算する時も、同じ値段であればそれらは商売をするうえでは交換可能で「等価」です。見積もりや評価、計算は「等価性」を呼び寄せるということが見て取れます。

非等価性が存在するとしたら、見積もりや評価といった態度によってではなく、特異的なものへの注意、つまりナンシーのいう「崇敬」や敬意といった態度によってです。これまで述べたことから、少なくともそういった態度は対象を計算の対象にしたり、見積もったり評価したりはしないことがわかります。ただし原発事故の損害のようなものは、単に計算が追いつかないという意味で「計算不可能」なのであって、決して我々はそれを計算の対象にしていないわけはなく、それゆえ敬意の対象にしているわけではもちろんありません。特異的なものとはやはり「想定外のもの」とは異なるようです。

またこうした対話の中から、「等価性」について考えるための分かりやすいキーワードが出ました。「モノサシ」です。たとえば評価や見積もりとはこの「モノサシ」をあててはかることと言い換えられます。また人と人が、人材として交換可能で等価なものとなるのはそれぞれに同じ「モノサシ」があてられることを前提にします。TOEICの点数や学歴などはその「モノサシ」の代表的なものでしょう。

他方でモノサシというこの言葉をつかって特異的なものについて考える場合には二通りの考え方がありえます。ひとつは、特異的なものに注意を向けるとは(1)「モノサシ」をあてがうことなしに、それそのものに注意を向け、敬意をはらうことではないかという考え、そしてもうひとつは(2)他人のモノサシや既存のモノサシではなく“自分のモノサシ”で対象をはかることではないかという考えのふたつです。今日の対話のなかでこのふたつの考え方の違いを際立たせることはできませんでしたが、自分はどちらの解釈に与するのか、どちらが適切かを考えてみてください。

何かひとつの「モノサシ」があらゆるものを計測してしまうという事態に関連して、いま推し進められている「復興」について自身の体験も交えて言及して下さった方がいました。その方によれば、震災前には地元を「東北の湘南」にしようという地域の計画があったにもかかわらず、震災後、中央官庁はその地域の“特異性”を無視して、いつのまにかその地域を農業地域にしてしまうことを決定していたそうです。それはまさに中央の役人が自身のモノサシで他者、地方をはかって「復興」を語っているのではないかと指摘してくださいました。思えば高度経済成長期に地方に続々とインフラが整備されていったのも、単一のモノサシではかった“豊かさ”や“幸福”で“発展”を構想したからではないでしょうか。おかげでどこも似たような風景になりました。

とはいえ復興計画や都市発展計画などにおいて、<強者である中央が自らのモノサシを弱者である地方に押し付ける>という単純な図式ですべてが回収できるわけでもないのは確かです。むしろ中央/地方の対立とは関係なく、単一の「モノサシ」が浸透していたことによって、地方から公共事業を受け入れた側面もあるのではないでしょうか。じっさい、他の方が指摘したように、「東北の湘南」を目指すという構想自体、その地域自身の“特異性”に注意を向けずに、他所から借用した、世間で通用しそうな「モノサシ」で自分の土地を評価して成り立っているとも考えられます。

しかしなぜ中央も地方も関係なくこの「単一のモノサシ」がこれほど浸透してしまったのでしょうか。それは多数を原理とする“民主主義”に関係がありそうだ、という話もありましたが、まだぼんやりとしています。

 

さて、時間も残りわずかですがもう二段落、69ページの最後まで音読してしまいました。そこで議論の焦点となったのはつぎの一節です。

  • 「ほかのどのような文化も、われわれの近代文化ほど、古文書や将来の予測を絶えず蓄えるという経験を持ちはしなかった。ほかのどのような文化も、過去や未来を現在化し、現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった。逆に、ほかの文化はどれも、特異な現在的存在の接近に留意する術を知っていたのだ。」(p. 69)


 

いまや地震や津波、竜巻といった極めて突発的な出来事さえも、様々なメディア、端末によって「記録」され、繰り返し、そのつど思いついた時に見ることができますし、あるいは経済成長率や彗星の接近時刻を予測し、現在の投資先を決めたり有給休暇の日程を決めたりすることができます。極端な例はDNAや手のレントゲンで子どもの未来を予測し受けさせる教育を決めようとする場合です。こうした振る舞いをナンシーはここで過去や未来の「現在化」と言っているのだと思います。面白いのは、そうして「現在化」しても現在はけっして「過ぎ去る」ことを止めなかったことをナンシーが指摘している点です。

というのもたとえば子どもの成長を記録したり、今見ている風景を撮影しようと思うのはそれを「残しておきたい」からではないでしょうか。しかしナンシーによれば、現在は決して残すことができず、必ず過ぎ去るものであることをやめません。もしナンシーのいうことが正しければ、われわれが現在起きていることを「残せる」とみなし、安心しきっている状態は単なる「錯覚」です。その錯覚が危険なのは、それが現在への“感度”を弱めることになるからです。「あとでまた見られるから」と安心して、現在の目前で起きている出来事を軽視する感覚はわりと多くの人にとって理解しやすいものではないでしょうか。DVDに録画された講義を受ける塾にいた筆者はまさにそれそのものを経験したと言えます。DVDに録画されているので寝ても巻き戻せばいいですし、理解したと思ったところは早送りできます。今理解できなくても時間が経ってからあとでまた再生することができます。そのような感覚で受験勉強をしていたから、大学に入って再生できない講義を受けるのは苦痛でした。まさに現在への“感度”が弱くなっていたといえるような状態だったからです。

こんな極端で卑近な例に限らずとも、ある参加者の方は震災の実際の体験と記録された映像とは全く異なると言って下さいました。少なくとも映像や音声によって記録されたそれは当日のその時のものと本当に同じなのかどうかと問いなおす必要はありそうですし、記録する手段が増え洗練されるに従ってわれわれの現在への感度が鈍くなっていることは確かです。そしてナンシーが喚起しようと思っているのは、そうした、記録によっては決して代替することができずそれ自身特異な「現在」です。「現在において思考する」とは過去の繰り返しや未来にまた再来するような現在ではなく、必ず過ぎ去ってしまうものとしての「現在」において思考することであると敷衍することできます。ナンシー自身が言及する「花見」もまた、そういった現在において思考し、現在の、その年その時その場所にしか咲かない花を思考する営みであって、ナンシーの言う通り昔の人はそれに長けていたのでしょう。われわれは(少なくとも筆者は)そのような花見を絶えて経験していません(もしかしたら子どもの頃にした初めての花見はそのようなものだったかもしれませんが...)。「花見」は毎年“同じ”「花見」だと思っていました。それどころかあらゆる行事が毎年“同じ”ことの繰り返しのように思えて、歳を重ねるにつれそれらの価値は減衰していきました。

今回の読書会で実際に話された内容とは離れてしまいますが、この点に関連してもう少し続けさせてください。なぜ我々は(少なくとも筆者は)毎年の行事を“同じ”行事、“同じ”花見(芋煮でもいいですが)であると考えていたのでしょうか。それは、単純に考えると、花見とは「桜の周りで酒を飲むこと」以外の何ものでもなかったからではないでしょうか。そうだとすると、確かに毎年「桜」はどこにでもあって、「酒」もあって、去年とまったく“同じ”花見をしているようにみえます。こう考えてしまえば去年の花見と今年の花見に違いは見出せません。しかしほんとうはその年毎の、またその土地ごとの桜はそれぞれ違っていて、それどころか桜の木一本一本が「どれも桜」と言ってひとくくりにできないほどの多様性=特異性を持っているのではないでしょうか。したがって花見とは確かに「桜の周りで酒を飲むこと」でもありますが、本当は、実際はそれ以上の内容が――“この”桜を“ここで・いま”愛でるということが――ある。要するに、我々が昔の人のように花見ができなくなってしまったのは、花見をすべて「花見」として、桜をすべて「桜」としてひとくくりにして、そのつどの花見をすべて「等価」なものとみなすことによってであると考えられます。ここでも等価性が顔を出してきます。

 

ところで、読書会中は「すこし細かすぎる」として話題を変えてしまった話があります。それは一番最初にとりあげられた箇所についてある方が言って下さったことです。問題の箇所をもういちど挙げておきます。

 

  • 「この非等価性が存在するのは、こうした特異的なもの――色や音や匂い――へと注意が向けられることによってである。」(p. 67)


 

この箇所についてその方は、「非等価性は存在しているけど、私たちはそれに気づけていなくて、この箇所はそれに注意を促しているのか」と、確かこんな風に発言して下さいました。しかし細かく読むと、ナンシーは「非等価性が存在する」のは特異的なものに注意が向けられることに「よって」であると述べています。つまりナンシーは単に、もともと存在する非等価性に注意を促しているというわけでもありません。むしろ非等価性の存在はわれわれの「注意」にある意味依存していることが示唆されています。しかし「非等価性」が我々の見方次第で存在したり存在しなくなったりすると述べられているのだとしたら、「非等価性」は錯覚とまではいわなくとも極めて「主観的」なものであるように思えます。するとそれは本当に「存在」していると言えるのだろうかという疑問が当然湧いてきます。筆者自身も「主観」と「存在」の関係についてきちんと理解しているわけではないのでこの疑問について正面から答えることはできませんが、2つだけ述べておきたいことがあります。ひとつは、ここで言われている「注意を向られること」(あと「態度」というもの)が単に「主観的」と言ってしまえるような働きなのかはもう一度疑ってみる必要があるということ。もうひとつは、さきほど「花見」を例に考えたところによれば、物事が互いに「等価」であるように思えたのも、われわれがそれを等価なものみなすことに「よって」であったということです。つまり毎年の花見や芋煮や桜はそのつど“同じ”で「等価」であるということも、反対にそのつどの花見や花が等価であるのではなく「非等価性」が存在することになるのも、われわれの“捉え方”とか“みなし方”に「よって」であるということです。ですから非等価性がわれわれの「捉え方」に従うからといってそれは「主観的」で、実際はやはりすべて「等価」である、などとも言えないはずです。・・・やはり予感したとおり少しごちゃごちゃした話しになってしまうし私自身十分にわかっていないので読書会中は避けてしまいましたが、考え直してみるとこれ自体とても面白く重要な話題です。

 

今回の読書会はほんとうに色んな話がでて、議論も盛り上がって、漏れがある気しかしませんが、とりあえず思い出せた限りでは以上のような内容がありました。繰り返すと、今日は69ページの最後まで読んだので次回は70ページの頭からです。おそらく次回で一通り第一章の音読は終えられるでしょう。読書会中にも告知しましたが、11、12月はこれまで読んだところに関しても読書会そのものに関してでもいいので、とにかくなんらかの文章を皆さんに書いてきてもらって、それを集めようと思っています。その後、今年度中になんらか皆さんとも共有できる形にまとめる予定です。また次回も今回のように活発に対話をしつつ本文の理解を進めていけるのを楽しみにしています。

 

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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