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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第5回

■ 日時:2013 年 8 月 24 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。

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フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社

第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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「震災を読み解くために」読書会の理念
私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第5回レポート



今日もまた新しく参加してくださった方が何人かいらっしゃったので、少しだけ全体的な流れに触れた後、前回の振り返りとともに、あらたに第二章「集積について」の第一節(+α)をまとめた資料(レポート最下部のリンク参照)で「技術」についてのナンシーの叙述を参照してみました。あくまでこの読書会の当面の目標は第一章を読み切ることですが、第9節以降はとくに「技術」(それと「集積」との関係)についての理解を深めることが必須であるように思われたからです。たとえば第8節でナンシーはつぎのように述べています。

  • 「われわれにかかっているのは、ふたたび生まれ変わる、新たに生まれ変わるといった観点とは別の仕方で思考することである。そのためには、少なくとも、『技術』とは何を意味するのかということについての理解を刷新することからはじめなければなるまい。」(p. 62)


 

8節までの叙述でナンシーがあぶり出した現代文明の「布置」の諸々の特徴が、フクシマを例とする「破局」の要因でした。いま我々が絡め取られているその「布置」から抜け出すためには“改善”を目指すような思考とは別の仕方で思考しなければならない、そしてそのために、技術の意味について「理解を刷新」しなければならないとナンシーは言っています。ではナンシーは「技術」についてどう考えているのでしょうか。

この箇所に続いてナンシーが「技術」について述べるのは、第一にそれが自然と対立するものではないということ。むしろ第二に、技術はわれわれの「存在様態」であるということ。第三に「この様態は、われわれをこれまで未分の合目的性の条件へとさらす」(同上)ということです。「存在様態」という言葉づかいは難しいですが、簡単にわれわれの「在り方」、さらに言ってしまえばわれわれが生を営む仕方だと考えても構わないと思います。そしてこの「存在様態」が、われわれを「未聞の合目的性の条件」へとさらすと、つまり――ナンシーが言い換えるには――「あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段となる」と同時に「ある意味では、目的も手段ももはやない」というような条件にわれわれを導くとナンシーはいうのです。このような両義性を「一般的等価性」(これまでの議論によれば、これは文明の布置を特徴づける言葉でした)は有しており、この中であらゆる構築物は破壊されるだけでなく「集積」されるとナンシーが述べている箇所(p. 63)まで読んで前回の読書会は終わったのでした。

 

しかしいまのこの箇所からだけでは、技術と自然との関係がどうなっているのか、「未聞の合目的性の条件」とは(あるいは、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段であり、かつ目的も手段もない状態とは)どういうことかを十分に理解することは難しいように思えます。また、それがどのようにして「集積」と呼ばれる事態を導くのかもわかりません。そのことについて、特にナンシーの「技術」についての考え方がより理解しやすい仕方で第二章「集積について」の第一節で書かれてあったので、今回はそれをまとめた資料を使って簡単に見ていきました。

 

詳しくは文末の資料を参照してもらえればいいのですが、さしあたり技術と自然との関係については「技術は自然を代補する」という一文に簡潔に表されています。「代補」とは「代わりになる」ことと「補う」ことを同時に意味しますから、つまり技術はヒトにとっての自然の不足を「補って」、「代わりになる」ということです。ヒトは(何故か)火で自分の身体を温めること、家に住むことを望むのであり、そういった欲求は手つかずの自然によっては満たし得ないがゆえに、ヒトは「技術」を用いて自然に手を加えます。しかし、ヒトもまた「自然」の一部、動物の一種です。自然がそれ自身で成長発展していくように――植物が自分自身で成長し花をつけ実をつけるように――ヒトもまた、そしてヒトの在り様としての「技術」もまた自分自身で発展していく。具体的に何が起こるかといえば、技術がヒトのあらたな期待、目的を生み出し、それを達成する新たな技術が生み出されるということが連続して起こるようになるのです(これに関して筆者が思いついた例は資料に書いておきました)。

最初の目的(体を温める)の手段であった技術がある条件(火おこしの道具と技術)を整え、その条件からまた新たな目的(肉を焼きたい、土(器)を焼きたい)が生み出される、ということが続いていくと、目的と手段との複雑な連鎖が生成していきます。この意味で技術とは「目的の構造化」のことであるとナンシーはいっているのだと考えられます。そして、この段階に至ると、目的と手段は絶えず役割を入れ替えるようになってくるとナンシーはいいます(p. 79)。つまりあるとき目的であったもの(不妊症の治療)はいつのまにか手段(利益を生み出すための)となり、あるいは手段であったもの(商品交換のための貨幣)はいつのまにか目的となっているということが起こる。このような事態が、先程みたところ(第一章第9節で)ナンシーが、技術によってわれわれが“さらされる”ことになるといったあの「未聞の合目的性の条件」であると考えられます。

さて、この条件にさらされるとき、つまりあらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段となるとき、われわれは次のように問わずにはいられないでしょう。すなわち「それは(そもそも)何のためなのか?」と。「長生きするのは良いことだ」ということを自明視した技術(延命治療)の発展が進んでいくと、次第に「長生きする」ことは手段なのか目的なのかわからなくなっていきます。今日の読書会でもやはり延命治療や安楽死、医療の話題が出ていました。そうなったとき「長生きは何のためなのか?」といったことが問われるようになります。さらにすすんで「よく生きるとは何か?」ということも問われるかもしれません。こういった問いはちょうど私たちが「てつがくカフェ」で扱っているような問いです。技術がもたらす目的かつ手段であるという性質=「未聞の合目的性」は、いわば“哲学的な”問いを引き起すのです。何人かの参加者の方々は、延命治療や安楽死などの例を挙げながら「長生きすることは良いことだ」という主張がそれほど当たり前に正しいとは思えなという意見を述べてくださいましたが、そのように思えないということ自体、われわれが今、いかに技術による「目的の構造化」が進んだ地点におかれているかを示しているのかもしれませんし、「てつがくカフェ」での対話の経験がそのような懐疑を挟む目を培ったのかもしれません。ところでナンシーによれば当然、「芸術的技術」もまた上で“哲学的”といったような種類の問いにさらされます(p. 80)。“art”(アート)が芸術も含め“技術(わざ)”を意味するように、芸術的技術もまた「自然を代補する」のであり、目的かつ手段、そしてそのどちらでもないような作品を手掛けるからです。

もし目的に関する問いやアイデンティティへの問い(「~とは何か」)を「脱構築」の試みと呼んでよければ(または少なくとも対応づけられるなら)、技術を介した目的と手段との絶え間ない連鎖、それによる「構築」は、その「極限において脱構築される」(p. 80)とナンシーが述べているのも理解できるようになりそうです。そしてさらに構築と脱構築を超えたところ――そういう意味での「後で」――には、「集積」がある(「かけられている」)とナンシーはいいます(p. 89)。こうして技術が「集積」をもたらす様子も、なんとなくつかめてきました。少なくとも第二章全体を読まなければ「集積」という概念を十分に理解することはできないことは確かですが、それでもそれが「構築」でも(あるいは「再-構築」でも)、「破壊」(=「脱構築」)でもなく、それらを「超えた」ところにある何かであることはわかりました。特にあの“哲学的な”問いの“後”にくるのが「集積」であるということは、今日の読書会で話していて気づけた一番興味深い点のひとつでした(もしかしたら、てつがくカフェが終わったあとの状態は“集積”と呼べるかもしれない、などとも話していました)。

 

こうしてようやく(この時点ですでに1時間と20分が経ってしまっていましたが...)第二章の“つまみ食い”を終えて、本題の第一章、第9節の途中から読み始めることができました。読み始めた箇所の63ページは、ちょうどナンシーが「集め合わせ」についての問いを提示しているところでした。

 

「われわれはどのような集め合せを想像できるだろうか。世界の諸部分、さまざまな世界、そこを経由する諸々の存在を、どのように集め合わせるのか。『われわれ』を、あらゆる存在者を、どのように集め合わせるのか。」(p. 63)

 

ただし、資料にも引用したとおりここでいう「集め合わせ」ないし集積(struction)は「秩序化や組織化ではなく、堆積であり、集め合わさることなき集合」(p. 89)のことです。では、一見すると逆説さえも孕んでいるように思えるこの「集め合わせ」について、ナンシー自身はどのように考え、どのように「集め合わせ」ようと考えているのでしょうか。その直後の部分はこの問いに直接答えているようには思えませんでしたが、少なくともナンシーはわれわれに次のようなことを“喚起”をしています。

 

「合目的性そのものから抜け出すのではないならば、すなわち、未来一般を志向し、投企し、投影することから抜け出すのでないならば、われわれは目的と手段の終わりなき等価性から抜け出すことはできないだろう」(p. 63-4)

 

「目的と手段の終わりなき等価性」から抜け出すことをナンシーはここで喚起していますが、その「目的と手段の終わりなき等価性」は、人間の「存在様態」である技術がもたらしたものでした。

そしてその次の段落から9節の最後までに、ではその「終わりなき等価性」から抜け出すにはどうしたらよいのかについてナンシーは論じているようです。ポイントは段落冒頭の次の箇所でしょう。

 

「逆に決定的なのは、現在において思考すること、そして現在を思考することではなかろうか。〔...〕近さの要素としての現在を思考することである。」(p. 64)

 

未来を志向する代わりにナンシーが呈示するのは「現在」において、そして現在を思考するということです。この対比はきわめて明快ですが、しかしこの第一章の最後に行き着いた「現在を思考する」こととはいったい何を意味しているのかを理解するのは容易ではありませんでした。

色々な意見がでました。未来や過去、あるいはこの世界のものではないようなものについて考えてないで現在の事柄だけを考えろと言っているのではないか、とか、たとえば福島原発事故について考えたとき、経済成長や復興よりも先に、今の問題と向き合うべきだといったようなことをナンシーは述べているのではないか、といった意見がありました。極端な言い方をすればナンシーはたんに「いまを生きろ」、カルペ・ディエムと言っているにすぎないようにもとれます。とはいえ正直なところ、ここまで議論を積み重ねてきてこの一言で済ませてしまうのにはさすがに抵抗があります(汗)たとえナンシーの言っているのがほんとうに「いまを生きろ」ということであったとしても、またはそうでなかったとしても、もう少し内容を引き出せるのではないでしょうか。そのさい特に、ある参加者の方が指摘して下さったように次の箇所が重要な示唆を含んでいると思われます。

 

「目的はつねに遠ざかるが〔...〕現在は自らの目的を自らのうちに有すると言わねばなるまい。――それは結局のところ技術と同様なのだが、ただし、そこには「最終的(finales)という表象は付け加わらない。」(p. 64)[太字強調引用者]

 

おそらく10節を読むことによって、9節のこの箇所でナンシーの言っている内容をより詳しく理解することができるでしょう。今日読んだ限り<現在について考えろ>としか言っていないように思える9節の内容を今回よりもより深く読み解くという観点で、次回は10節の冒頭からまたじっくり読んでいきたいと思います。

 

「現在について思考する」ことについて思考するのに煮詰まったあと、読書会はすこしだけ座談会っぽくなりました。どういう脈絡かは忘れてしまいましたが、『フクシマの後で』というタイトルはいわゆる“当事者”にはつけられないだろうとか、電力会社と原発周辺地域の住民との関係は、簡単に加害者/被害者という二項対立では割り切れないといったことについて話が膨らみました。何人かの方々は、フクシマが「終わった」かのように思わせるタイトルに不満を覚えていらっしゃいました。

読書会当日と同じく、いささか強引にまとめさせてもらうとすると、加害者/被害者のような単純な二項対立で割り切れない複雑さもまた、ナンシーのいう「等価性」という現代文明の布置に由来するのであって、やはりわれわれはより全体的に、広い観点でもって思考しなければならないのです。そして今日読んだ箇所によれば、われわれはさらに未来ではなく現在について思考しなければならないのだとすると、おそらくわれわれの思考はかなりの複雑さに耐えなければならないことになるでしょう。『フクシマの後で』を読むことは、そのための手助け、練習になることは間違いありません。ですからまたこれからもがんばって読んでいきましょうということで、次回新しく読んでいくのは第10節の冒頭からです。

 

第5回読書会資料(PDF/131KB)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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