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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第4回

■ 日時:2013 年 7 月 27 日(日)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。さしあたり目標とするのは、この本の第一章「破局の等価性」を読み切ることです。
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フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社
第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
第2回目までで第一章「前文」を読み終えました。第3回目からはいよいよ本文に入っていきます。第3回目のはじめに本文全体の骨子を全員で確認してから読み進めていく予定ですので、次回からの参加も可能かと思います。また、参加者の方々にはぜひとも対話に参加して頂きたいと考えていますので、課題本を入手して、予め該当の章を読んで来ていただくことが必要になりますのでご了承ください。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)
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「震災を読み解くために」読書会の理念
私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第4回レポート

〈3.11以降〉読書会は今回で4回目でしたが、今回初参加の方々も何人かいらっしゃったので、予め用意したレジュメで比較的丁寧に前回の読書会を振り返ることから始めました。前回の読書会の内容は前回のレポートを見て頂ければと思いますが、途中で前回にはなかった話題が(新しい参加者の方から)出たのでまずはそれについて書きたいと思います。

そこで話題になったのは、ナンシーが「責任」をどう考えているのかについてです。前回と今回のはじめに確認したように、ナンシーが言っていたのは次のことでした。すなわち現代文明の特徴のひとつは「等価性」と、それによって諸々の「力」が互いに複雑に絡み合っているということです。このことからその参加者の方が考えたことは、ある出来事の「原因」と呼べるようなものも今ではけっしてひとつに限定できるものではなくて、ちょうどフクシマに関してナンシーが解明したように、文明全体の構造、布置が当の出来事を引き起こしているのであるから、今は「責任」というものについても問うことができなくなってしまっているのではないか、というものです。

この意見に対して、いち参加者として議論に参加していた筆者は、ナンシーの議論からそのような帰結を引き出してしまうことに抵抗を感じました。確かに現状、原因をひとつに特定しようとすることは不可能でしょう。福島原発事故の原因は東電の社長の意志ひとつに求められるわけでもなければ、東電という会社にのみあるわけでもなくて、あのような体制を作り出した政治的・経済的構造もまた事故を用意したはずです。しかしだからといって、責任について問うことを止めてしまえるという主張をナンシーがするとは私には思えませんでした。そうではなくてむしろナンシーの議論から引き出すべきなのは、より全体的な観点から責任について思考することではないかと。最も簡単な例は、原発事故に対しては、東電だけでなくそこから供給されてきた電力を享受してきた消費者の側にも責任がある、というように思考することです。

しかしまた別の方が仰ったように、ナンシーの議論は責任ということが問題になる以前の、より深いレベルでの議論であると考えるのが一番適当かもしれません。とはいえあの参加者の方が言って下さったように、ナンシーの議論を踏まえた場合にある出来事の「責任」をどのように考えられるだろうかと問うてみても面白いことはたしかです。

 



 

前回の内容を振り返ったあとは、第9節から音読をはじめていきました。きりのいいところまで読んでいったあとに、読んだ箇所で理解できなかった点について議論を進めました。

最初に議論の焦点になったのは、「コミュニケーション(communication)は感染(contamination)となり、伝達(transmission)は伝染(contagion)となる」(p. 59)という一節の意味です。ここで言われているのは、「コミュニケーション」や「伝達」が「感染」や「伝染」といった“病的”になるということであるのはわかりますが、いったいどのような意味で“病的”であるのかはなかなか理解しにくいところです。ひとつ明快な意見があったので紹介すると、ふつう伝達やコミュニケーションは「意図」をもって自分の考えや意見を伝えようとするものですが、いまは情報、意見、思想が技術を通して「意図せず」拡散していってしまいます。それはまるで体内のウィルスが当人の意図とは無関係に他人に「伝染」してしまうかのようであり、また通常の「伝達」に比べて異常な、それゆえ“病的な”仕方で情報等が伝わっているのだと考えられます。Twitterで情報を広めたいときには「拡散希望」と付け加えますが、情報はまさにネット上で「伝達」されるのではなく「拡散」していくものです。ときにはたとえ当人が「希望」していなくても、つまり意図せずともツイートは「拡散」していくこともあります。このことを念頭におくとあの一節の意味もわかりやすくなるのではないでしょうか。

ところでそもそも「伝達」が「伝染」となってしまうのは、前節までに延べられたあの「等価性」によって諸々の「力」、事象が統べられ、相互に依存しているからであるという意見も聞かれました。そしてこの相互依存のあり方は、今読んでいる節のなかでも描写されています。次の箇所です。

この相互依存のなかで、「自然」と「技術」の区分、さまざまな技術のあいだの区分、目的と手段との区分、自己目的たるわれわれの存在と無際限に等価的となった目的に仕える手段たるわれわれの社会的生との区分、こうした区分がすべて消え去ったのである。富、健康、生産性、知識、権威、想像力、これらはすべて同一の論理のなかに組み込まれる。この論理は、量の質への転換を大原則としているように思われる。(p. 58)

前回の話題にもなりましたが、牛やトウモロコシ、あるいは人間といった区分は資本主義社会においてはほとんど意味をなさず、それらどれについても価格という名の価値をつけることが可能です。それら各々の、固有の「質」は、価格という「量」によって互いに「通約可能」に――互いの優劣を評価することができるように――なります。ここでは(最初筆者が勘違いして述べてように)質は量によってはかられているとも考えられますが、むしろ(別の方がおっしゃったように)量が質“である”とみなされているのだと考えることもできます。たとえば文学作品の価値というものがあってそれを出版部数ではかるというよりもむしろ現在は、出版部数こそが文学作品の価値であるとされているのではないかということです。だからこそナンシーは「質の量への転換」というよりも、「量の質への転換」が大原則になっていると述べたのだと考えられます。この<量こそが価値である>という大原則、より具体的には「出版部数」や「販売台数」がそのものの価値であるという大原則にのっとれば、すべてのものの価値はそれのもたらす利益によって同様に(“平等に”)はかることができます。

 

61ページの「環境主義」や「技術的無意識」とは何かということについても議論になりました。「環境主義」という言葉の意味については、2通りの意見がありました。ひとつは「環境」と同義だという意見、もうひとつは人間もなにもかもある「環境」によって形成されるという考え、主義を表すというものです。前者の意見はよく理解できなかったのですが、とにかくわれわれは神や偉大な人間、自然といったある「最善のもの」を目指して思考することしかしてこなかったにもかかわらず、神への信仰は衰え、説得力をなくし、また「全的人間」を思い描くこともできなくなってしまったいまでは、「環境」が、あるいは「文脈」が<人間>を形成するとしか考えられなくなったがために、「主体」、「意味」、「アイデンティティ」、「形象」などに対する「正当な問いかけ、嫌疑、疑いを生み出すことになった」のだと述べられているということについては共通の認識が得られたと思います。「技術的無意識」については筆者が調べてくることになりましたが、参照されている文献の入手が困難なため、できそうもありません。

 

最後に、62ページで言及される「技術」がわれわれをそこに“さらす”ことになる「未聞の合目的性の条件」についての話題がありました。そこでは次のように述べられています。

〔…〕技術とは諸々の操作的な手段の総体のことではなく、われわれの存在様態なのだ、ということである。この様態は、われわれをこれまで未聞の合目的性の条件へとさらす。すなわち、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段になるという条件である。(p. 62)

「合目的性」とは、ある目的にかなう性格だとして、「技術」というわれわれ人間の“在り方”(存在様態)が、どうしてわれわれを「未聞の合目的性の条件」にさらすことになるのか、理解しにくいところです。まずは「未聞の合目的性」がいかなるものかについて解釈が割れました。ひとつは、それはわれわれには予測できないような、まだであったこともない「合目的性」のことであるという解釈。もうひとつは、「目的無き合目的性」という意味であるという解釈です。これは、「未聞の合目的性の条件」にわれわれはすでにさらされていると考えるか、それともこれからようやくわれわれはそれにさらされると考えるかによっても解釈が分かれているのだと思います。この点についての議論は時間がオーバーしてしまったので十分にすることはできませんでしたので、次回も引き続き考えていければと思います。

 

今回は音読しながら議論をしていくという方式で読書会を進めていきましたが、やはりテーマが細部に集中する傾向があります。それはそれで意義のあることですが、細部について議論するのと同時に、次回はより全体的な観点と、具体的な観点とから9節、10節を読んでいけたらと思います。

次回は今回の読書会を振り返ってから63ページの「われわれはどのような集め合わせを想像できるだろうか。」という一文から始まる段落を読んでいく予定です。

第4回読書会資料1(PDFフファイル103KB)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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