考えるテーブル

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せんだいメディアテーク
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てつがくカフェ

「映画『埋もれ木』から考える」(シネマ)

■ 日時:2013 年 12 月 15 日(日)18:15−19:45
■ 会場:せんだいメディアテーク 6f ギャラリー4200
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com(綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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今回のシネマてつがくカフェは、対話の可能性上映企画の関連プログラムです。とりあげる映画は『埋もれ木』(小栗康平監督/2005年/日本/93分)です。 あらかじめ映画の主題や対話のゴールを述べることはしません。そもそもこの映画については、話したいこと、考えたいこと、謎が多すぎて、そんなことはできません。 それでもおそらく、『埋もれ木』を観たあとでは、「何を話せばいいのか」なんて心配はしなくてもいいことがわかるはずです。

むしろ各々の「話したいこと」を話してもらい、そこから映画についてでも、あるいは映画から考えさせられたある事柄についてでも、問いを立て、他人の声に耳を澄ませながら、考えを深めていきたいと思います。自分にとっても他人にとっても理解できることと、できないことがきっと出てくると思いますが、みなさんでつくりあげる1回きりの対話の場を楽しめたらいいなと思います。

 

綿引周(てつがくカフェ@せんだい)
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■ 映画『埋もれ木』上映情報
対話の可能性「さるかたにあらまほし」にて上映

日時:① 2013年12月14日(土)11:00− ②12月15日(日)16:10−
場所:せんだいメディアテーク 7f スタジオシアター

料金:一般500円、高校生300円、中学生以下無料(豊齢手帳、障がい者手帳をお持ちの方は半額)
問合せ:022-713-4483(せんだいメディアテーク企画・活動支援室)

http://www.smt.jp/dialogues/sarukata.html

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

シネマてつがくカフェ「映画『埋もれ木』から考える」レポート



今回のてつがくカフェは小栗康平監督作の映画『埋もれ木』を題材としました。筆者も最初に観はじめたときは、ほとんど「分からない」という感想しか抱かなかったくらいに謎の多い映画でした。それだけ「考えさせられる」映画であるともいえます。

ただ、私たちはこの映画をあくまで「きっかけ」として対話を開始するにすぎず、本当にやりたいのは「てつがく」的な対話です。・・・と、対話の最初に、当日ファシリテーターでもあった筆者自身が言ったにもかからず、結果的にほとんど映画“について”の対話にしてしまったというのが今日の筆者の反省点としてあります。しかし少なくとも映画についてさまざまな視点やお話が出ましたし、なんとか最後には――参加者の方々のおかげで――「てつがく」らしい対話もできました。今回のレポートでは特に対話のなかの「てつがく」的な要素を抽出して対話の様子を報告するとともに、本来ならばファシリテーターが積極的に働きかけ、もっと展開すべきだった方向を示したいと思います。

対話のなかの「てつがく」的な要素として2つ挙げたいと思います。ひとつは映画から受ける「美しさ」の印象について、もうひとつは「言葉」についてです。

映画の「美しさ」について、はじめのうちはもっぱら個々のカットの映像美や背景の音の印象について語られていたように思いますが、対話が進むにつれて、映画の「美しさ」についての発言者の方々の語り口が変わっていったのがとても印象的でした。もっとも一番はじめに発言した方はすでにご自身の「記憶」と映画の個々のカットとを重ねてかんがえていらっしゃいましたし、他の方もそれに同意していましてはいましたが、しかしそれでも映画から受けた印象を言葉にしようとするときに、対話の後半にいくほど単に映像の画の美しさだけでなく、映像に含まれる何かそれ以上のものについて語ろうとする傾向が強くなっていったことは確かです。映像の画の美しさ――あるいはある方は「美しさ」と区別して「綺麗さ」という言葉を選んでいたりしましたが――より以上のものとしてはたとえば、「監督の伝えたいこと」や「登場人物たちの振る舞い方・生き方・俯瞰した話し方」、「土着性」、「時間、時間の積み重なり」、「理想」等々、これらを映像から受けとって、それによって「美しさ」という印象を受けとったと言って下さったり、あるいは対話の後半ではもはや「心地よさ」といった表現によってそれらの印象を多くの方が表現していました。

映画の「美しさ」についての印象を参加者全員の方が映画から受けたわけではありませんが、かなり多くの方がそれを受けとって言語化しようとしていたことは確かです。しかもなにより、今回対話の最も「てつがく」的な話題はこの「美しさ」ないし「心地よさ」の印象の周辺にありました。それは特に、ある方が、わたしたちの「現実」に対する態度と「フィクション」に対する態度との相違について次のように発言して下さってからのことです。

《見ているものが現実であるか(ドキュメンタリー映像であるか)、ノンフィクションであるか、フィクションであるかによって、その映像にたいする私たちの態度、その映像から受ける印象は大きく異なる。たとえば感動的なストーリーが単なるフィクションだったと知ったとたん、わたしたちは白けてしまうだろう。》

それと同様に、わたしたちの国の歴史が“単なる”ファンタジーだとすればわたしたちは今まで通りに暮らすことはできなくなるでしょうし、将来の「夢」や理想についてさえ、“単なる夢想”とそうでないものとの区別はわたしたちにとって重要です。

とはいえフィクション、あるいはファンタジーが感動やなんらか良い印象をもたらしえないというわけではありません。実際、今回見た『埋もれ木』という映画はファンタジーと現実とが絡み合いながら、まさにそのことによってわたしたちに「美しい」あるいは「心地よい」という印象をもたらしてくれたと仰って下さった方もいました。それどころか、ある方が仰ったように《色の鮮明さ、配色にかんしていえば「コンビニ」は田園風景や「マーケット(映画内では市場のような佇まい)」よりも「綺麗」かもしれないが、しかし――何人かの方が「コンビニ」があの映画に出てきた最初の瞬間には、不快感や違和感を感じられたように――「美しく」はない、なぜなら田園風景や「マーケット」、その他ひとつひとつのオブジェクトには「それ以外の情報」が「層になって」含まれているが「コンビニ」はそうではないからだ》と言うこともできるとすれば、現実に頑として“ある”もの「以外のもの」、すなわちそのいみでの“ファンタジー”こそが、多くの方がこの映画から受けとった「美しさ」や「心地よさ」の印象を生み出す源泉ではないかと考えることもできます。するとある方がご自分の受けた「美しさ」の印象の原因を説明しようとしてもちだした「土着的なもの」や個々の物に蓄積する「時間」もまた、「現実」にある以上のものとして、もしかしたら“ファンタジー”的なものに数え入れることができるかもしれません。

じつはこの文脈の対話がひとつの頂点に達したときにちょうど時間が切れてしまって、これ以上この話題を深めたり、もしかしたら少数の人々のあいだでしか共有できていなかったかもしれない今述べた内容をみなさんで共有したりすることもできませんでした。ファシリテーターとしての筆者の第一の反省点は、対話の前半からすでに出ていた「美しさ」や「心地よさ」の要因としてみなさんが挙げていらっしゃったもの(記憶や土着性、時間、理想など)を互いに関連させ、それらのあいだで共通するような、普遍的なものを見いだす作業を意識的に促さなかったことです。今回は運よく、ある参加者の方がリアリティ/ファンタジーの相違について言及して下さったことから、“ファンタジー”という「美しさ」ないし「心地よさ」の源泉たりうるものを発見したところまで対話が行き着けただけでした。あらかじめきめられた、必然的な段取りを踏むことはむしろてつがくカフェの面白さを損なうことになりますが、とはいえ普段「てつがく」に親しくない人たちでも「てつがく」することができるための最低限の観点をファシリテーターが提供する必要はあるでしょう。



ところで対話のもう一方の軸として前に挙げた「言葉」が、この“ファンタジー”に関係しないはずがありません。なにより映画は主人公であるマチたちが“お話”を創り上げることから始まるのでした。その“お話”に出てきたラクダやクジラが現実――だと映画を見ているひとが考えていた世界――に出てくることによって映画の鑑賞者は映画の世界がリアルであるかファンタジーであるかの態度を「攪拌」され、しかも先程述べたように、そのように「攪拌」されるからこそ個々のカットには“ファンタジー”という現実にあるもの「以外のもの」が見いだせ、「心地よさ」がもたらされるのでした。

このように言葉を紡いで“お話”を、「物語」を創り上げることは世界に“ファンタジー”を生みだすためのひとつの重要な手段たりえるでしょう。しかしもし、登場人物のひとりが言っていたように、「物語」とはわたしたちが「それにのって生きていく」言葉でできた乗り物であるとすれば、映画のなかだけでなく現実に生きるわたしたちさえも“お話”という“ファンタジー”にのって生きていくことになるでしょう。実際に映画をみてそのように考えるようになったという発言もありました。

またより正確には、映画の冒頭は漫画の一コマからはじまります。その漫画についてマチは「絵はいい」けど「よくわからない」といいます。マチの友達は――確かさきほど物語はわたしたちが「それにのって生きていく」乗り物であると言っていた友達は――「嘘だから」いいのだと言っていました。このシーンを取り上げて、「絵はいい」けど「よくわからない」という感想は、まさに今てつがくカフェでみなさんが言っていることと同じだと指摘して下さった方がいました。他方で映画は、わたしたちの記憶と同じように、連続した日常を切り取って、そのなかから選んで上手く繋げているからこそ「いい」のだと「心地いい」のだと仰って下さった方がいました。

あるいは死んだ飼い犬についてマチの母親が述べていたことについての発言もありました。彼女は「犬は言葉をしゃべらないからいい。それでどれだけ救われたか。」と、確かそのような台詞を述べていました。言葉を持つこと、物語を語ること、“ファンタジー”を生みだすことには、“悪い”面もあるということでしょうか。・・・

 

このようにして、「言葉」を巡る対話は断片的に話題に昇るだけで終わってしまいました。しかしこうして、あらためてその一部を並べてみただけでも、それらの間に深いつながりが潜んでいることは見て取れます。やはりこの場合も、「言葉」というキーワードを軸としてそれぞれの発言に共通のもの、普遍的な要素を抽出するという作業をファシリテーターが促すべきでした。

したがって、てつがくカフェのファシリテーションを行う際には、すくなくとも(1)対話を貫くキーワード――今回の対話でいえば「言葉」「物語」「美しさ」「心地よさ」「現実・フィクション」等々――を抽出し、(2)そのキーワードを含む各々の発言の内容に共通するもの、普遍的に当てはまるものを見いだすという対話の構えを打ち出すこと――たとえば今回の対話では、「多くの人が『美しさ』ないし『心地よさ』という印象を抱いたのは、映画のなかのどのような要素に対してか?」と問うことによって――これらふたつの側面でファシリテーターが働きかける必要があるのだと思いました。

特に第一のステップはてつがくカフェスタッフのなかでも定石となってきていましたが、あらためてその必要性と意義を思い知りました。また、「てつがく」は単に“謎”や“分からないこと”をひたすら問うだけではなく、なんらか“普遍的なもの”や“共通するもの”へと向かう方向性をもってそうすべきであるという考えにも至りました。

ただし最後に述べたことは絶対にこうすべきといういみではなく、今回のファシリテーターとしての経験から得た感想として受けとって頂ければと思います。



報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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今回のシネマてつがくカフェは、対話の可能性上映企画の関連プログラムです。とりあげた映画は『埋もれ木』(小栗康平監督/2005年/日本/93分)です。

http://www.smt.jp/dialogues/sarukata.html

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