第28回 「震災と食」
■ 日時:2014 年 1 月 19 日(日)15:00−17:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ ファシリテーター:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ
■ 問合せ:tanishi@hss.tbgu.ac.jp (西村)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造
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これまでの震災を巡る対話のなかで、おそらく少なからぬ人たちがつぎのような印象を持ったのではないでしょうか。つまり「震災はわたしたちの〈日常〉に埋もれていたもの、〈日常〉に覆い隠されていたものを顕わにしたのだ」という印象です。たとえば10月のてつがくカフェ「震災とセクシュアリティ」では、とくにセクシュアルマイノリティの方たちが震災時に被った苦悩というのは、じつは震災以前にすでに社会のかかえていた問題が、震災をきっかけとして表に出た結果にすぎないのではないかという声が聞かれました。表面上――たとえば似た者どうしで集まって、異質な者との接触を避けながら――なめらかに進行しているようにみえる〈日常〉の奥底に、隠されたまま潜んでいた「問題」が震災を契機として顕わになるというこの構図は、もしかすると「震災と・・・」と問うてきたすべての主題に共通するかもしれません。そしておそらく今回のテーマにも。
わたしたちの〈日常〉を構成するもっとも基本的な要素である〈食〉についても、それが極めて日常的な営為であるからこそ、やはり震災をきっかけとしてはじめて顕わとなって、わたしたちに思考を強いるところがあったはずです。食品安全に関することであれ、〈食べる〉ことそのことに関してであれ何であれ。
今回のてつがくカフェでは「震災と食」を問うことで、ふだん最も「当たり前」にこなされ、それゆえ見過ごされている〈食〉について、みなさんと一緒にメスを入れていければと思っています。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)
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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。
てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp
第28回 てつがくカフェ「震災と食」レポート
今回のテーマは「震災と食」。これまでのてつがくカフェの対話のなかではしばしば「〈震災〉という出来事が日常、特に震災以前の日常生活においては隠されていた事柄を暴きだしたのだ」というような感想が引き出されてきたように思いますが、そうだとすれば「日常」の最も基本的な要素、〈食〉についても、震災を機に何かが明るみに出たのではないのかと考えられます。そして実際にそうだったのだと、今回のてつがくカフェのあとでは確信しています。
対話は参加者の方々の震災時の経験談から始まり、当時の経験から〈食〉の捉え方が変化したこと、それについて新しく気づいたことを、集まった方々が次々と語ってくださいました。てつがくカフェが始まる前は(こちらでテーマを設定しておきながら)何が話されるのか皆目見当がつきませんでしたが、実際に始まってみれば対話はとめどなく進んでいきました。また、各々の為された経験は確かに個々別々のもので、各人固有の経験であったことは確かですが、それにもかかわらず、参加者の方々の経験談を集めていって自ずと明らかになったように、語られた内容には多くの共通する部分が見受けられました。そしてそれを指摘しキーワードとして抽象していった結果に、今回の対話が行き着いたのは、筆者には思ってもみなかったところでした。そのため当日ファシリテーターも務めさせて頂いた筆者には、対話の最終局面での話の展開についていけず、まともにまとめることができませんでしたが、あれから時間が経ったいまならば、あの場で私たちが語っていたこと、語ろうとしていたことが何であったのかをより適切に表現する言葉が見つけられるように思えます。今回の対話で語られた内容を振りかえりながら最後には、当日ファシリテーターとしてはできなかったことをここで取り返せればと思います。
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先ほども述べた通り、今回の対話は震災時の経験談からはじまりました。
まず話されたのは、震災時、自販機が使えなかったこと、スーパーやコンビニ等々、「システマティック」な流通網に頼っているお店は、震災時柔軟な対応をすることが難しかったこと。それに比べて個人商店や地元の中規模なスーパーは、震災時も食品を供給するよう努力してくれたこと。とはいえそのような非常事態ではなく日常が戻るとやはり大手のスーパー、全国展開したチェーン店などのほうが強く、個人商店は経営が厳しくなる――このあたりのことをどう考えればよいのか。あるいは食料が手に入っても、電気やガスが止まったままでは「加工」することができず、〈食べる〉ことはできない、ということに震災時に気がついた(そのときやはり地元の個人商店、小さな定食屋が震災時も営業してくれて助かった)こと等々。
震災当時石巻にいた方のお話もありました。その人が言うには、震災直後まず思ったのは「食=生きる」ということ、つまり食べなきゃ死んでしまうということで、だからこそ電気も断たれ、食料品店も津波で流されてしまった状況では、津波が引いた後に漂流した冷蔵庫から食べられるものを見つけて食べたというような、てつがくカフェ以外の場ではすこし語りにくい内容のお話もして下さいました。そしてその時その方が知ったのは、「泥がついていても食べられる」こと、熱せば何でも食べられること、雪もとかせば飲料水になるということでした。しかし震災時のような非常時、食べ物というのは無ければ生死にかかわるほど大切なものだと感じられるのに、日常が戻れば大量に生産・消費され、消費期限が切れればすぐに捨てられてしまう。食料はずいぶん「上に持ち上げられたり、下がったりするもんだな」とその方は仰っていました。実際、「賞味期限に拘る必要はないのではないか?」とも問いかけて下さいました。
他には、東北地方では震災時にパニックにならなかったけれども、災害時には人間の本性がでるというお話や、東京では買い占めが起こったが、まさにそこでは食べ物に対する執着という「人間の本性」が出たのだというご意見。あるいは野草を取る知識もなければ川の水をろ過することもできず、都会にいるひとほどこういうときに無力(そう言った発言者のおじいちゃん、おばあちゃんなら山菜を採ったりして生き延びられるだろうけれども)。だからこそ買い占めに走ったのだろうかといったご意見もありました。
また大手資本のスーパーと地元のスーパーとの対比に絡めて、「都会」と「田舎」の〈食〉に関する文化の違いに触れて下さった方もいました。その方がいうには、「田舎」ほど食べ物を家に備蓄しておく習慣があり、震災時はその習慣が役に立った。都会はそうではないから、食品の供給経路が経たれる心配があると買い占めに走ってしまうのではないかとか、あるいは秋田出身の職場の同僚を例にして、「田舎育ち」のひとほど困ったときには食べ物を共有してくれるなどのお話もありました。
当日は農家の方もいらしてくださいました。震災時、流通がストップして野菜が出荷できなかったので、近所の避難所で無料配布したことや、井戸水を配給したこと、自家発電機で自動販売機を動かした経験をお話して下さいました。
さきほどの石巻の方と似た感想を持った方がほかにもいました。その方もはやり、「意外と不潔でも死なない」とか、普段のように大量の水をつかって食材を洗わなくとも十分に食べられることに気がついたそうです。また地震直後、大手のスーパーに何重もの列ができていて、2週間後スーパーに行ったけれどもあるのはこんにゃくとスナックだけだったとか、その時あるおじさんが、放射能がどうとか関係なく、いま福島の野菜を取り寄せれば食べるぞと言っていたというお話もして下さいました。
放射線の話題に絡めて、買い占めは供給が絶えたことによってだけでなく、放射性物質への不安から、たとえばペットボトルの水が買い占められたことを指摘した下さった方もいました。その方は震災後、東京で福島の桃を売る女の子を見たり、仙台でも福島の桃が安い値で売られていたことを目撃したそうです。あるいは関西では「放射能ゼロ宣言」と謳った野菜が売られていたりするなど、震災後は放射能の無さが価値になっていたが、それは「風評被害」を強化するのではないか、過剰ではないかといった疑問も呈して下さいました。とはいえ、震災をきっかけとして、食品の安全性に対する意識が生まれたとも仰ってくださいました。
「風評被害」という言葉に対して疑問をぶつけて下さった方もいました。「風評被害」と言っても事実として放射線に汚染されていることは消せない。原発事故後、おじいちゃんが山に山菜をとりに行ったり、野菜を作って食べることができなくなったという「事実」を「風評被害」という言葉は覆い隠してしまうのではないかと。
あるいは震災以後の〈食〉に対する意識の変化についての発言もありました。その方は、震災以後、食べられるもの/食べられないものついて、安全/危険について、自分が何を食べているのかについて、「ひとりひとりが考える時代」が来たのではないかと仰ってくださいました。またこのこととは別に、震災当時手に入る食料や水が限られていたにもかかわらず、あるいはだからこそ、自分の食料や水を他人と分け合い、精神的な結びつきが生まれたとも話していました。
それを受けて、共に〈食べる〉ことが「精神的な結びつき」を生むということは、「同じ釜の飯を食う」という慣用句に表されていると指摘して下さった方がいました。そして震災時は必要から「同じ釜の飯を食う」ことによって「精神的な結びつき」が生まれたが、普段もわたしたちは食事に誘ったり、飲み会に誘ったりして「同じ釜の飯を食う」ことによって精神的な結びつきを強めようとすることがあるとも。
以上まででとりあえずは、参加者各人の震災時の体験、それによって知ったこと、気づいたことを拾っていく作業には区切りをつけることにしました。これまで出てきたお話を振りかえってみても、個々の体験は様々であるにもかかわらず、何かしら共通する部分が透けて見えるようにも思えます。それをもっと際立たせるためにも、参加者の各々が用いていた「言葉」に注目して、さしあたり皆さんが共通して用いていた言葉=キーワードを抽出してみることにしました。それを以下に並べてみます。
キーワード
- 食べる=生きる。食べなければ死ぬ。
- 食べなくても生きていける・汚くても食べていける・思っているよりも低い基準で食べることができる
- 備え・備蓄・水
- 分かち合うこと・独占(買い占め)
- 基準――口に入れる基準・出荷する基準・安全の基準・・・震災時だと生きるための必要最低限の基準に従うが、日常は生きるための基準ではなく、その他の(美味しさ・値段等々の)基準をつくり上げる。
- 選択――震災時は選択の幅・選択の可能性が極端に狭くなるが選択の幅が大きいと、生きるため以上の基準を求めることができる。
- 〈食べる〉ことの意味や価値
- どこから買うか――スーパーからか、個人商店からか
- コンビニ・スーパー・・・食べていくのに必要な「システム」
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これらのキーワードのなかで特に注目を浴びたのは「基準」という言葉でした。何人かの方々が震災以後、思っていたよりも低い基準――たとえばスーパーで普段売られているよりも形が崩れていたり、泥がついていたり――で「食べ物」を選んで、それで平気なことを知ったと仰っていました。あるいはコーヒー店の店長さんの話を引き合いに出して下さった方もいました。その店長さんが言うには、コーヒー豆は焙煎から2週間経つ前はむしろ身体にいいが、それ以降は酸化して身体に悪いものとなる。コーヒーの苦手な人は身体が拒否するからそうなのだけれど、焙煎して2週間以内のコーヒーなら飲めるそうです。このお話をして下さった方自身もその店長さんに聞く前は、焙煎から2週間後のコーヒーが有毒になることを知らず、一般的に流通しているコーヒー豆やコーヒーを何の疑いもなく飲んできた。つまりコーヒーについて何の知識もなかったから、その安全性の判断をまったく他人任せにしていたのだし、あるいは放射能についても同様で、知識が無いからこそ過剰に反応する一方でレントゲンやMRIに対しては無防備になるのではないかと仰ってくださいました。
ほかにも「食べ物」の基準について最も分かりやすいのは、「賞味期限」や「消費期限」といった基準でしょうか。この「基準」について、実際のところ消費期限をすこし過ぎたくらいでは食べられるのに、大手のスーパー、食料品店では一日でも過ぎれば廃棄されてしまうし、子どもを育てる母親のなかには子を守る上で捨ててしまう人もいる。大量生産、大量消費は資本を増やすのに必須なのかもしれないけれど、消費者のほうはそういった「システム」に頼ることで選択の幅が狭められているのではないかと問題を提起して下さった方がいました。――この方の発言が示唆するように「基準」と「選択肢」のあいだには密接な関係がみられます。キーワードを挙げる段階で、ある方はそのことを指摘して下さっていました。つまり、また別の方の言い回しを借りれば、「食べ物」に関しては「生きるための基準」と「それ以外の基準」(安さや美味しさ)とがあるけれども、震災時は「食べ物」に関する「選択肢」が極端に狭められたから極端に低い、単に「生きるための基準」で「食べ物」を選んだのではないか。逆に日常が戻れば「選択肢」は増え、選択肢が増えるからこそ「生きるため」以上の基準で「食べ物」を選ぶようになるのだと。だから「食べ物」の「基準」の問題は、「選択肢」の問題と絡み合っていると指摘して下さいました。この発言を念頭に、その前の発言を振りかえってみて面白いのは、震災時よりも「日常」で強力に機能する「システム」はむしろ私たちの選択肢を狭めていると指摘されていたことです。
これがどういうメカニズムになっているのか、先程の農家の方が米やホウレン草の出荷の規準を具体的な数値で示して下さっていました。例えばお米だと、何ミリ以下は出荷できず、できたとしても煎餅用などにしかできないそうです。そうした私たちの知らない「基準」によってシステムのなかに受け入れられる食品とはじかれる食品が決められていて、受け入れられたもののみが店舗に並ぶ。そこでその農家の方が仰るには、はじかれたものを見ること、それのあることを知ることが、基準の幅を広げるのに役立つのではないかということです。
一度、賞味期限の話に戻りましょう。ある参加者の方が仰っていたように、賞「味」期限は美味しく食べられる期限であってそれを過ぎたからと言って食べられなくなるわけではありません。しかしそうであるにもかかわらず、スーパーなどでは賞味期限を過ぎたものでさえ捨てられてしまう。消費者に何かあればたたかれるから、廃棄しなければならないのでしょうが、何か違和感があります。その方は「他人に基準を任せきってしまっているのではないか」と仰って下さいましたが、今思えば、このことは消費者と供給者双方に当てはまる気がします。このご発言を受けて、より身近な体験に引きよせて下さった方もいました。その方は友達にもらった羊羹を冷蔵庫に放置していたのですが、しばらくたってその羊羹が食べられるのか否か、自分で判断することができなかったそうです。
ではなぜ、私たちは自分で選択の基準を選べなくなっているのか? その問いかけに対して「責任」の問題ではないかという意見を仰って下さった方がいました。「食べ物」を自分で選べなくなってしまっている、何を食べるのかについての基準を他人任せにしてしまっているのは、〈食べる〉ことの責任を自分で負えずに、他人に任せっぱなしになってしまっているからではないかというご指摘でした。それを聞いて「腑に落ちた」と仰った方は、〈食〉に関する「基準」や「選択」の話は、むしろ「生き方」の話であり、自分の身体に入れるものなのに、人々はその選択の基準を他人に委ね「自分で自分を生きていない」と仰ってくださいました。
日常ないし普段の私たちのこのような振る舞いから逆に、〈震災〉とは「システム」から放り出されることであり、他人に取ってもらっていた責任を自分で取らざるを得なくなったことだと指摘した下さった方がいます。
他にも「基準」を「意味」や「価値」に換えると「食べ物」あるいは〈食べる〉ことに含まれる豊かな内容を表現できるのではないかと仰って下さった方もいましたが、「食べ物」や〈食べる〉ことを意味や価値といった観点で捉える議論が発展する前に、時間が来てしまいました。
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このようにして、震災と〈食〉というテーマから出発して最後には「責任」という話まで行き着きました。ただし今回のカフェで話題になった〈食〉に対する責任とは主に何を食べるのか、何が食べられるのか、その〈基準〉を選ぶ責任のことでしたが、他方で〈基準〉と選択肢の多寡についての言及もあり、これらがどのような関連にあるのか、もっとすっきりとした整理ができそうでできなかったところが、ファシリテーターをやっていて歯がゆい所でした。
当日できなかったことですが、一度基準、選択、責任の関係を振りかえってみてみます。するとさしあたり次のように整理できるのではないでしょうか。
(1)まず石巻の方の実体験が教えるように、震災時には選択の幅が極端に狭まり、その結果〈食〉に関する基準は「生きるため」の、最低限の基準に引き下げられますが、(2)「日常」が復帰すると選択の幅が広がって、それゆえにわたしたちは〈食〉に対して多様な基準を求め、生きるための最低限の基準に照らせば決して捨てる必要のない物も次々と廃棄してしまいます。しかし(3)確かにわたしたちは、震災時に比べればより多くの選択の可能性に開かれ、多様な基準を持っているのかもしれないですが、日常においてコンビニやスーパーに代表される「システム」が正常に働きだすと、「システム」によって画一化された基準に照らして受け入れられたものだけが提供され、私たちは実際“限られた”選択肢しかもたないことになります。
そして(1)のときには、個々人は〈食〉に関する「責任」を否応なく引き受けなければなりませんが、(2)-(3)の場面では「責任」の所在が段々と「システム」のほうへと引き渡されていきます。しかしそれはなぜでしょうか? ひとつには、ある方が仰ったように個々人の「責任感」が薄れているからかもしれません。だから災害などの非常事態によって強制されない限り、人々はなるべく他人の基準に身をゆだね、他人に責任を押し付けようとする。しかしそれを聞いたとき筆者には何か引っかかるものがありました。その違和感は対話の間にはかたちにならず、とうとう対話の最後まではっきりしたことは何も言えずにいたのですが、てつがくカフェが終わってしばらくしてからもう少し上手く言えそうな気がしてきました。というのは、〈食〉にまつわる現状を個々人の「責任感」によって説明しようとすれば、次のありそうな考え、すなわち〈食〉についての「科学的な知識」を持っているのは一般人ではなくやはり科学者のほうであり、大学や企業に勤める彼ら科学者あるいは「専門家」の決めた「基準」に従うのが最も「合理的」ではないかという考えを度外視することになるのではないのか――この疑問が当日筆者の頭を捉えていたものだと思います。
このありそうな考えに対してはまず、「科学的な知識」だけでなく、自分の眼や舌、五感で感じたことに従って、自分の責任で食べ物を選ぶべきだという反論がありうるでしょう(もし反論するとしたら)。しかしこの反論は、少なくとも五感では感じ取れない「放射能」を問題にしたときには無効になります。たとえガイガーカウンターを使って放射能を可視化しても、何シーベルトが危険なのかを一般の人が自分で判断することはできません。ある方が仰ったように、「知識」を得なければ自分の基準をつくり上げることも、自分で責任を取ることもできません。しかし現実問題として、〈食〉に関してでも何でも、「知識」でその道の専門家に勝てるわけがありません。彼らが誠実である限り、専門家や科学者の決めた「基準」に従うのが最も安全かつ合理的であり、大衆は相対的に無知で科学者たちの決めた基準に従うしかないからこそ、専門家や科学者たちは重い「責任」を大衆に代わって負わなければならないのだと、このように考えることもできるのではないでしょうか?
しかしこのような考えがあり得るだろうと思いつつ、他方では今回の震災、とくに原発事故によって多くの人の印象に残ったことは、専門家集団に問題をまかせっきりにしてもダメだということだったのだと筆者も思います。彼らの間にも意見の対立があったり、彼らもまた利害関係に絡みとられていたりするのはもちろん、たとえ彼らが責任感を持ち、善意に満ちていたとしても、彼らの選択が必ず安全で「合理的」であるとは限らないのではないでしょうか。
とはいえそれでも、彼らの方が一般の人たちよりも知識を持っていることは否定しえません。今回のテーマで言えば「何を食べるべきか」ということに関して一体誰の・何の基準で誰が本当に「責任」を取るべきなのかについては、今回のてつがくカフェでやった以上に、さらに議論を深められそうです。
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ファシリテーションに関して。今回は以前やったときとは異なり、意識的にキーワードを抽出して、皆さんの経験に含まれていた共通なもの、普遍的なものを際立たせられたように思いますが、他方で序盤に皆さんのお話を一つひとつまとめ直していたのが余計だったのではないかと今では反省しています。ファシリテーターの理解した限りでの発言者の発言内容を整理した形で繰り返すことで、少なくともファシリテーターに理解できた限りでの当の発言内容をより共有しやすくなると考えてやってみたのですが、(その繰り返した内容が全然整理できていなかったことは置いておいたとしても)、やはりそれは一定の観点によって切り取られ、秩序づけられた内容でしかなくなってしまっています。以前はそれでも何もまとめないよりはマシだろうと思っていましたが、しかし最近は、まとめる必要などなく、発言の中にちりばめられていた言葉を書きとめておくだけでよい気がしています。幸い私たちのてつがくカフェではあの大きな黒板が用意されていて、ファシリテーショングラフィックをやって下さる方もいます。ファシリテーターが発言をまとめるよりも、もっと「対話」らしく言葉のキャッチボールができるように流れを意識してもよいのかもしれません。今回は前の方の発言内容を受けて話し始めて下さる方が多くて、レポートを書いていて気づきましたが、対話の流れそのままで割と整理された思考の流れができあがっていたように思います。
それと今回、キーワードを抽出した後、「問い」をつくり上げることができませんでした。今回は特に対話の行き着いた先が思ってもみなかったところであったというのもありますが、今回に限らずとも「問い」をつくり上げるところがてつがくカフェの一番難しいところであり、同時に最も「てつがく」的な作業ではないかと思いました。このステップが「てつがく」対話の要と捉えられるかもしれません。
報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)
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◎ カウンタートーク
- カフェ終了後に行っていたスタッフによる延長戦トークです。以下より視聴できます。
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てつがくカフェ第54回「映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』から考える」(シネマ)今回は、2016年度せんだいメディアテーク自主企画展覧会「畠山直哉 写真展 まっぷたつの風景」の関連イベントとして、ひとつの映画を通じて対話するてつがくカフェを開きます。 ■ 日時:2016 年 11
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2016.09.25.Sun
てつがくカフェ第53回「『分ける』を考える」■ 日時:2016 年 9 月 25 日(日)15:00-17:30 ■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa ■ ファシリテーター:綿引周(てつがくカフェ@せんだい) ■ 参加無料、申込不要、直接会場へ &n
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2016.07.31.Sun
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