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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第10回

■ 日時:2011 年 8 月 7 日(日)16:00−18:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

課題本
東 浩紀著「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」(講談社)

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第10回レポート

写真1

今回は〈3.11以降〉読書会の第10回目、東浩紀著『一般意志2.0』を課題本とする読書会の第1回目でした。前回までの課題図書、ジャン=リュック・ナンシーの『フクシマの後で』では毎回、十数人程度の方々が参加して下さっていましたが、課題本を変えたことでまず何人集まるのか、そしてどのようなひとたちが集まるのか、読書会が始まる前は不安でもありました。そのような気持を抱えて迎えた読書会にはけっきょく、前と変わらず十数人ほどの参加者が集まり、またまさに“老若男女”というべき、様々な人々が来て下さいました。したがって〈さまざまな人々が参加できるように開かれてあること〉というこの読書会の目標ひとつは、とりあえず今回は達成できたようです。

しかし集まった参加者の多様なバックグラウンドを――たとえば発言権を得るために必要な語彙や文法の制約、態度や資格等を(暗黙にでも)課すことによって――損なうようなことなく、互いに「対話」を行うためには、そのための最低限の“ルール”ないし手引きとなるものを決めておくことが必要ではないかと、これまでの読書会の経験から考え、今回は(このレポートの最下部に添えてある)暫定版の「読書会ルール」を確認するところからはじめてみました。ただし「対話」のためのルールと言いましたが、今回暫定的にまとめあげたそれは、主に「聞き手」の側を強く意識するものになってしまったようです。



「対話」のためのルールないし手引きについては、その資料を見て頂ければ、今回来ていただけなった方にも大体のところは掴んでもらえるのではないかとは思いますが、「暫定版」とあるように筆者自身のなかでもまだ確固たるものとはなっていないので、今回の読書会の対話も踏まえて、このレポート上でも再びまとめ直してみようと思います。つぎの一段落、次のアスタリスク(*)までは半分個人的、内省的な文章になってしまうかもしれませんので、面白くなければ飛ばして読んでください。

「対話」のためのルールを考えるにあたってまず指摘したのは、会話する者どうしの共有する知識や経験が多ければ多いほど「相手の言っていることが難なく分かる」ことが多いという経験的な事実――学者どうしや長年連れ添った夫婦どうしの会話を思い浮かべて頂ければいいと思いますが――であり、その事実からして、それとは対極に位置する状況、つまり互いに非常に異なる経歴を持つ方々の集まるこの読書会での会話では、「相手の言っていることが難なく分かる」という場面は少なく、むしろ「相手の言っていることがわからない」ことのほうが圧倒的に多いはずだということです。そしてこれまでこの読書会、あるいはてつがくカフェの対話の場に参加して下さった方であれば、実際にそうだったと、納得して下さるのではないでしょうか。ですから参加者の多様性を生かしたまま「対話」を行うためには、(日常よくしてしまうように)「相手の言っていることがわからない」発言を切り捨てたり、排除したりするのではなく、その場面と“直面”し、それをどう乗り越えるのかに懸っているのだと考えられます。そこで例の資料で「相手の言っていることがわからない」ことになる要因のいくつかのパターンを挙げてみたところ、それらは発言者と聞き手双方の工夫によって容易く「わからない」を「わかる」に変えることができるパターン(1から3-1)と、そうしたとしても簡単には相手の言っていることが「わかる」ようにはならないパターン(3-2)とに分けることができました。「わからない」を「わかる」に変える工夫とはたとえば、相手が全く無意味なこと(“アブダカタブラ”のような)を言っているというような、そっちのほうがむしろナンセンスである前提を排したり、一般的でない用語・術語をなるべく使わず、やむ負えない場合はその語の意味を説明しつつ使用して、聞き手のほうもその語を受け入れるようにすることなどです。そして多様なバックグランドを背負った人々の集まるこの読書会で「対話」が成功するためには、例えば日常において「わからない」からといって退けたり流したりしてしまう発言をいま言った工夫によって「わかる」ようにするとともに、それによってもすぐには「わかる」ことにはならない場面(3-2)を際立たせ、その場面に“直面”することが必要だと、このように書きました。そしてこの最後のパターンにあたる場面において、発言者の発言の含蓄を深く掘り下げることによってこそ、本当の意味での新しい“知”に出会う機会が生まれるのだと考え、それこそこの読書会でしたいことだと述べました。また、このように新たな“知”の獲得を目的とせずとも、そのような場面に立ちあうことは、他の参加者が「自分とは異なる」ことを、身をもって知ることでもあります。その経験それ自体、ふだんは忘れてしまいがちなことであり、だからこそこの読書会の理念として掲げられていたのでした。曖昧な点も多々ありますが、さしあたり以上で書いたことを参加者のあいだで共有できれば、よりよい読書会になるのではないかと思います。



簡単に読書会のルールについて確認したあと、まずはこの課題本を読んだ感想ないし印象を参加者の方々に順番に述べて頂きました。まだ今回の課題本の全体を読めた方はほとんどいませんでしたが、それでも著者東浩紀の語る「夢」に関しては肯定的な意見や印象を持たれた方が多かったように思います。あるいは著者の語る「ルソー」の人物像に惹かれたと仰って下さった方もいました。

しかし他方で、著者の語る「夢」は支持できるにしても、現実味がないのではないかという意見を持たれた方もいました。その方自身、パソコンを持っているわけでもなければ、ましてやツイッターやグーグルなどとはまったく縁がなく、これから社会がますます高齢化していく一方でIT技術は急速に進歩していくのだから、その方のようにIT技術の発展に付いていくことのできない人間はこれからむしろ増えていくのではないか。そうだとすればIT技術を用いて可視化されるのは、IT技術を用いることのできる限られた人間の欲望だけになるのではないかと問題を提起して下さいました。

これに対して、しかし実は今現在でさえ、個々人が直接IT技術に触れることがなくともIT技術の恩恵を受けていることがある――この点を指摘した下さった方がいました。たとえば人気の商品は、過去に蓄積されたデータによって、他の商品よりも多く入荷され、そのために品切れを起こすことも無くしかるべき人数の消費者のもとに届くようになっていますが、そのデータの蓄積には、たとえIT技術とは無縁でも、たとえ自分で買い物に行かなかったとしても、なんらかのかたちで消費活動を行っている全てのひとが寄与しているはずです。そしてまさにこのようにして――データベースに基づいて物流をコントロールするような仕方で――可視化された人々の欲望を土台とした民主主義という著者の「夢」は、市場ではすでに部分的にせよ実現されているとも言えます。したがって、先程の方の疑念、IT技術についていけない人は実はこれからますます増えていくのではないかという疑念は共感できるものであるにせよ、そのことをもって『一般意志2.0』で語られる「夢」の可能性を否定するまでには至らないように思えます。



著者の語る「夢」についてはしかしまた、今回の読書会では別の角度から話題に取り上げられました。じつはこの『一般意志2.0』という本は、震災前の1年半のあいだ(2009年の冬から2011年の春まで)、講談社の広報誌『本』で連載していた記事を一冊にまとめ上げたもので、その連載の最終回は2011年の3月頭に発行された四月号に掲載されていました。著者は序文で次のように書いています。

【震災はその〔四月号発行の〕直後に生じた。もし連載がなにかの理由でひと月延び、最終回の締め切りが震災直後に当たっていたとしたら、筆者はおそらく最終回を書き上げることができなかっただろう。】(序文9項)

それほどまでに「日本の社会と文化をめぐる言説は、震災前と震災後のあいだで大きな楔を打ち込まれてしまった」(同)のだと著者はいいます。この「楔」は、連載の単行本化のさい、著者が普段なら行う「全面的な修正」、加筆をも拒んだといいます。少し長くなりますが、引用します。

【もしいま、存分に手を加えるとすれば、筆者〔東浩紀〕はおそらくは、本書を日本論に変えてしまうだろう。一般意志2.0の実現が、単にルソーのテクストから導けるというだけでなく、また単にこの国の風土に合致しているというだけでもなく、日本がこれから新しい国に生まれ変わるためにこそ必要とされるのだと、そのように議論の軸足を変えてしまうことだろう。そのとき本書は、もはや思想書でも情報社会論でもなく、日本の未来について新しいイメージとヴィジョンを世に問う、まったく別の書物に生まれ変わらざるをえないだろう。〔...〕だから筆者〔東浩紀〕は、本書をあえて連載時のままの構成で出版することに決めた。夢に魅力がなくなったから加筆しないのではない。夢を夢として素直に語る、震災後の筆者〔東浩紀〕はそれがもうできなくなってしまったから、加筆しないことを選んだのである。この本は、震災前の筆者にしか書けないものだった。】(序文、11項)

しかし「夢を夢として語る、震災後の筆者はそれがもうできなくなってしまった」のはなぜか?――この箇所を読んである方は、このような疑念を呈して下さっていたと思います。たしかに、著者東浩紀が存分に加筆修正することができなかったのは単に、「民主主義の可能性」に関する論述であったものを「日本論」という“規模の大きなもの”に変えてしまうことを危惧したからだけではないことを、その方の注目した一文は示唆しているように筆者にも思えます。

この問題提起を発端とした以下の対話は、〈震災直後に「夢」を語ること〉を巡ってのもの、と一応名づけておきます。そこでまずひとつには、震災によって突きつけられた生々しい現実が/その切迫感が/…、著者に震災直後「夢」を語ることを憚らせたのではないかということが言われました。

震災直後に「夢」を語ることへの抵抗感、違和感と関連して、実は同じ著者を巡って次のような話が今回の読書会以前からありました。すなわち、『一般意志2.0』の著者東浩紀は編集長として、震災後(2012年7月)『日本2.0 思想地図βVol.3』というタイトルの雑誌を出版していたのですが、それが仙台の書店に並んでいるのを見て、「いまはまだ小数点を重ねながらの日々のなかにいるのに、“2.0”として、いきなり新しい日本の理想像をもちだされると、心が萎える」 と筆者に仰って下さった方がいたのです。そう、たしかに、生々しい現実に直面している人々にとって、「夢」や「理想」に関する言説がどうしても白々しくみえてしまうことはあるようです。『一般意志2.0』の全面的な加筆ができなかったという著者の記述は、彼自身の、あるいは被災当事者の方々のこのような心情を踏まえてのことだったのでしょうか。

ところで、では、『日本2.0』を出版したことによって2012年の7月時点には著者はすでに、『一般意志2.0』の出版時には憚られた「抽象的な夢」を語ることに対する抵抗感を失くしてしまっていたのだと言えるでしょうか? ――そうとも限らない、とある方が注意を促してくださいました。その方も(このレポートの筆者も)『日本2.0』を読んだことがないので仮定の話しかできませんが、もし、震災によって打ち込まれた「楔」を契機として描けなくなった「抽象的な夢」ではなく、そうではなくより「具体的な」事柄を『日本2.0』で扱っているのだとしたら、『一般意志2.0』の序文で書かれた著者の心情の変化は1年後に無効となったわけではなく、むしろその変化の延長線上に『日本2.0』が出版されたことになると言えます。タイトルが被災地の、あるいは仙台に住む人に上で紹介したような印象を与えたこと、このことは事実かもしれませんが、それをもってこの読書会、このレポート内で『日本2.0』の内容を決めつけてしまうことは避けたいと思います。

ここから当日の読書会では――本文の内容からは少し離れてしまいますが――〈震災直後に夢を語ること〉がより主題的となりました。先ほどまでは、著者の語る「夢」を「抽象的な」ものとして捉え、また震災直後、「生々しい現実」は人々に抽象的な言説を忌避させることになると話してきました。そこで次の問いが立ちます。

・なぜ震災(直)後は「夢」を語ることに違和感を覚える(た)のだろうか?

より詳しく述べなおすと

・「夢」を語ることに違和感を覚えるのはそれが「抽象的」だから/「一般的」だから/「普遍的」だからか、それとも「個人的」だからか、あるいは「未来」のことだからか?

筆者にとってこの問いが非常に興味深く思えたのは、「生々しい現実」と直面する「当事者」の「抽象的な」語りに対する違和感は、「〈震災〉とセクシュアリティ」と題して全3回開催されてきたてつがくカフェでも問題になっていたからでした。筆者が直接伺ったわけではなく人づてなのですが、「マイノリティ」であるという状況が生み出す様々な困難に現実に直面している人々、いわゆる「当事者」の方々が、てつがくカフェの対話のあと、「抽象的な」話ではなくもっと「具体的な」話、日常実際に起きていること、体験していることを語りたかったと漏らしていたそうです。その話を聞いて、なにも『一般意志2.0』の著者に限らず、てつがくカフェのスタッフとしての、また哲学を学ぶ者としてのわたしもまた、生々しい現実を前にした「当事者」に対し、あるいは彼らとともに、あえて「てつがく」的に語ることの意義を説明できるのかどうかが問われているように思えました。《哲学なんて現実的な困難に直面する必要のない人間が時間をつぶすためにするものだ》と表だって言うひとはいないにしても、しかし現実の危機に瀕している人々を前にして、あるいはその人たちの傍らにいて、「てつがく」的に語ることは差し控えられねばならないのでしょうか?

筆者がそのように半ば自問自答をしていたとき、ある方が震災直後のご自身の経験を語ってくださいました。その方はもともと映画が好きで良く見ていたそうですが、震災の1週間後、映画館の館長さえも迷いつつ上映していたあるフランス映画を見て、すごく救われたのだと、つまり、震災直後の生々しい現実に耐えきれなくなったときでも、そうした状況に陥ったひとにとっても、映画を含む「フィクション」、非-現実的なものが救いになりうるのだと仰ってくださいました。その意味で「てつがく」的な語りも、具体的でないからといって、生々しい現実を前にしたからといって尻込みする必要はないと。たしかに。

てつがくカフェでの対話、そして哲学にはたしかにそういう面もあるでしょう。この方の仰って下さったことは十分妥当なことは認めたうえで、しかし筆者はあえて「ほんとうにそれだけがてつがく的に語ることの意義なのか」とさらに問いたいと思いました。とはいえこの問いの方向へ突き進めば本文からはさらに離れていってしまうので、当日はこの話題はここまでで終わりにしましたが。(ひとつだけ、自ら立てた問いに対してなんらか寄与する事実として、筆者の経験について語らせて頂くとすれば、すくなくとも筆者は「震災とセクシャリティ」の一連の対話の後、セクシャリティに関する言説、特にテレビの中でのそれを、いまでは違和感や嫌悪感なしに聞くことはできません。しかもそれは、第三者への同情からではなく、自分が当たり前だと思えない、思えなくなった事柄を他人が当たり前のこととして語っていることへの違和感です。)



さきほどさりげなく書いてしまいましたが、著者が震災後「夢」を語りはじめることを思いとどまった(だから加筆しなかったと考えられるとしたら)のは、それが「個人的」なものだからではないかという意見もありました。震災直後、多くの人が現実の問題と直面している最中に、個人的な「夢」を雄弁に語る人がいたとすれば、それに対してはたしかに違和感を覚えるのではないでしょうか。

しかし『一般意志2.0』で語られる「夢」が単に「個人的」な夢にすぎないわけでもない――と考える可能性を示唆して下さった方がいました。たとえば著者は、フロイトの「夢思想」(夢の「源泉」)と「夢内容」(夢の「材料」)の区別を踏まえ、本文のなかで次のように述べています。

【本書の主題は、一般意志という「夢思想」が、情報技術という「材料」を用いて新たに紡ぎだしつつある近代の夢を可視化すること――そんなふうに表現してよいかもしれない。本書は夢について語る。しかしそれは、決して筆者個人の夢ではなく、おそらくは近代社会が長いあいだ忘れ続けてきた夢なのである。】(第一章、24項)

その方は、この状況を「入れ子構造」と呼んでもいましたが、この構造はある方が感想として、エッセイといいながら脚注ばかりで論文みたいで読みにくいと仰っていたことと関係していそうです。つまり、著者の個人的な夢と近代社会の夢とが重なりあっているがために本文の記述もエッセイ風の記述とより「客観的な」、論文風の記述とが共存しているのかもしれません。とはいえやはり先ほどの方が仰ったように、社会的-集団的な無意識の表出としての「夢」と、著者個人の「夢」との複雑な関係を云々するよりも、さしあたりはこの本のなかに現れる「夢」という言葉には著者の個人的な理想としてのそれと、無意識の表出としての、フロイト的な夢とがあることを念頭に置いておくことにしましょう。



今回参加者のみなさんに読んで頂くことになっていた本文第一章から第三章までは主に、ルソーの『社会契約論』から「一般意志」という概念を取りだすことに充てられていました。したがって読書会の後半は、とりあえずこの「一般意志」を議論の発端として進めてみることにしました。

「一般意志」について、まずは筆者の予想していなかった感想から。実は当日、この本を読むだけでは著者東のいう「一般意志」ないし「一般意志1.0」が本当にルソー自身のいう一般意志と同じか分からなくて不安だという方が、しかも何人かいらっしゃいました。たしかに筆者は民主主義のもともとの理念を探るために、ルソーの『社会契約論』へ遡ろうという意図もあってこの本を選んだとどこかで述べた覚えがありますし、それにもかかわらずもし東の語る「一般意志」がもともとのルソーのそれと異なっていたとしたら、わたしたちは偽りの「民主主義の理念」をつかまされることになります。歴史的な起源という意味で“そもそもの”民主主義の理念を理解するためには、東ではなくルソーの本に直接あたるのが最善でしょう。とはいえ原著にあたるのがルソーの民主主義についての考えを知る最前の方法であるにしても、それがこの読書会の唯一絶対の目的でもありませんし、著者の解釈が全く的を外しているとも考えられません。著者の解釈と整理を借りて民主主義の歴史的な起源に接近しつつ、現代に生きる思想家の考える「民主主義」について知ることに根本的な誤りがあるようには筆者には思えませんし、この読書会だけでルソーの思想を完璧に理解することは不可能だと思います。それより一番いいのは、この読書会をきっかけにして参加者の方々がご自分で『社会契約論』やその他の関連する本(脚注にあがっているような)にあたっていただくことです。

それはさておき、当日対話の出発点となったのは「一般意志」という訳語の原語(volonté générale)を引き合いにだし、個人的にすぎない意志(volonté)を一般的(générale)と形容したその概念は矛盾していて理解しがたいと述べて下さった方のこの発言でした。たしかに、少なくともわたしたちが普段聞きなれている「世論」や「民意」といった語は、個人的ではなく社会的-集団的な「意志」として理解できるものですが、しかしそれは一般意志とは異なることが本文のなかでは強調されています(42項以下参照)。ここで本文のなかにも現れる術語を導入しておくと、個々人の意志はルソーのいう「特殊意志」、わたしたちが「世論」や「民意」と呼んでいるものは彼のいう「全体意志」に近く、これらと「一般意志」とは区別されなければなりません。ではルソーのいう「一般意志」とは何か?――これが第一章から第三章までの主題であるはずですが、今回の読書会ではこの問いに直接取り組むまでには至りませんでした。その代わり、「一般意志」と「民主主義」の関係ということから、「民主主義」と政体の話へと流れていきました。

申し訳ありませんが話の流れが錯綜していて記憶が曖昧なので、ここでは出てきた話の要点だけを、しかも筆者の覚えている範囲、理解した範囲でしか整理することできません。

何度か繰り返し言及があったのは、今現在日本国民であるはずのわたしたちの意志が政治に反映されているという実感が全くないということでした。それで本当に日本で民主主義が実現されているのだろうか、参政権がすべての国民に認められていること、そのことだけで民主主義が実現されているとは限らないのではないかという問いかけが何度かあったように思います。〈国民全員の意見が政治に反映されている実感がない〉ということから日本が民主的な国家か否かを問うという多くの方の取ったこの身ぶりからすると、さしあたり、多くのひとにとって「民主主義」とは〈国民全員の意見が政治に反映されること〉として理解されていると言えるのではないでしょうか。そしてこの意味での民主主義を実現するのにかならずしも「民主制」という形態を取る必要はなく、「君主制」のもとで民主主義が実現することもあると考えられる、と仰って下さった方がいました。いっぽうルソーもまた「一般意志の執行」には民主制より君主制のほうが適すると述べている、と本文に書いてあります(38項)。このあたりに「一般意志」と「民主主義」との関係を探る手がかりがありそうですが、今回は深められませんでした。

ところで「民主制」が「民主主義」と異なるとして、民主制や君主制と言ってなんとなく使っていた言葉の意味はなんでしょうか。参加者の一人の方が民主制や君主制とは、「政体」の区別のことであり、その歴史についても詳しく発言して下さいましたが、後日筆者自身も少しだけ文献にあたったので、このレポートの残りではこの「政体」という概念について『岩波 社会思想辞典』(資料Aとします)と『西洋政治思想史』(宇野重規著、有甲斐、資料Bとします)を参考に整理してみたいと思います。というのも今回の読書会当日もそうでしたが、ルソー(あるいは東浩紀の解釈するルソー)のいう「民主主義」について話す際に政体としての「民主制」と混同されそうになるからです。本文で何箇所か(たとえば37-8項)、おそらくこの後者の意味で「民主主義」が使われているのもあって、少なくとも政体としての民主制の意味、「政体」そのものの意味をはっきりさせておかないと、いっそう議論をややこしくしてしまいそうです。次回の読書会は以下でまとめた内容の確認から入ろうと思います。



たしかに、『社会思想辞典』によれば「政体」とは端的に「政治共同体の統治形態や体制」のことではあるのですが、しかし普段「政治共同体の統治形態や体制」について考えたこともないひとがほとんどではないのでしょうか。それとしては実際いかなるものがありうるのか、つまり具体的な「政体」としてどんなものがありうるのかをみてからでないと、「政体」の意味もよくわからないのではないでしょうか。そこで、歴史上アリストテレス、ボダン(ホッブス)、モンテスキューという3人の思想家がそれぞれ独特の仕方で政体を分類していますが、彼らがどのような観点で「統治形態」を分類するのか、それゆえ具体的にいかなる「統治形態」がありうるのかをみておくと「政体」についての理解もしやすくなるのではないでしょうか。

アリストテレスは(1)統治者の数(一人、少数、多数)と(2)その目的(交易の追求か私益の追求か)によって政体を分類しました。ただし政体の分類はアリストテレスの師であるプラトンも行っています(加藤信朗『ギリシア哲学史』参照)。アリストテレスは師のその分類を、より形式的に整理し直したといえるでしょう。アリストテレスの分類は以下の図のようにまとめられます。

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(資料B, 22項の表1-1参考)

*アリストテレスにとって「国政、ポリテイア」は狭い意味で寡頭制と民主制を混合した政体を表すこともあれば、より広い意味で、「財を各人の価値に応じてどのように配分するか」(配分的正義)、「公民の範囲をいかに定め、顕現のあり方や人事の決定の仕方をどう規定するか」等を決めるその国の根本原理や制度を指すこともあります(資料B, 21-2項)。

ここから『社会思想辞典』と『西洋政治思想史』とで記述がずれますが、後者によればボダンという政治理論家が1576年に出版された『国家論』において「主権」という概念を編み出したとされ、主権者はアリストテレスが支配者と呼んだものと対応づけられます。ボダンによれば「主権」とは「国家の絶対にして永続的な権力」であり、「具体的にはまず立法権であり、さらに外交権、人事権、最終裁判権、恩赦権、貨幣鋳造権、度量衡統一権、課税権など」(資料B, 95項)であるとされています。そしてそれぞれの統治の善し悪し(公共の利益に適うか否か)という観点には本質的な意味がないとされ(資料B, 96項)、したがって上の表で示されたアリストテレスの分類の縦軸はなくなります。すなわちボダンは、政体の区別は主権者の数にのみ基づき、王制、貴族性、国制という3つの統治形態しかないとします。

モンテスキュー(1689-1755)は政体の「本性(nature)」と「原理(principe)」という2つの観点による分類を試みました。政体の本性とは政体の「形式」を決めるもの、つまり主権を有するものの数ですから、政体を分類するための伝統的な観点を引き継いでいます。対して政体の原理とは「その政体の内部で人々を活性化させる情念」(資料B, 130)とされ、これらふたつの基準から次の三つの政体を区別することができるとモンテスキューはいいます(資料B, 131項参照)

  1. 共和制:主権者は人民の一部(貴族制の場合)もしくは全体(民主制)であり原理は「徳」。徳とは「自分の利益より共和国の利益を優先しようとする自己犠牲的な公共精神」のこと。

  2. 君主制:主権者は君主一人だが、君主の恣意ではなく、法によって統治される政体。具体的には君主と民衆の間の中間権力として貴族が存在し政体を支える。原理は名誉。

  3. 専制制:主権者は一人の人間であり、その人間がいかなる基本法にも拘束されず自らの恣意によって統治を行う政体。原理は恐怖。




以上で確認した限りでは、「政体」は少なくとも――ボダン以降登場した概念を用いれば――「主権」を誰がもつのかという点でまず分類できることがわかります。したがって「政体」、政治的共同体の「統治形態」はまずここで「主権」といわれているものの所在に依存していることになります。前に「民主制」と言われていたのは、主権者(アリストテレスのいう「支配者」)が民衆である統治形態である、とは言えそうです。しかし難しいのは、〈民衆が主権者(支配者)である〉ことをどのように理解するかです。ひとつには、古代ギリシャが実際にそうであったように、自由で平等な市民のなかから抽選で公職に就くものを決め、民衆裁判に市民が参加するという仕方で、市民どうしが相互に、交替で支配者、被支配者になることです。このときたしかに民衆は(順番に)支配者になっています。このような統治形態が古代ギリシアでは民主制(demokuratia)として分類され、実はこの語がデモクラシーの語源になっています。英和辞典にさえ“democracy”の原義は「民衆(demo)の統治(cracy)」であることが書かれています。

しかし、先ほど紹介したように、何人かの参加者の方が(実感として)仰っていたのは、国民主権が憲法に明記されている日本でさえ〈国民の意見が政治に反映されていない〉、その意味で民主主義的でないのではないかということでした。この実感の原因としては次のふたつが考えられます。すなわちひとつには、国民主権が見かけ上のものであるということ、あるいは国民主権、民主制という意味でのデモクラシーと、我々がなんとなく念頭においている「デモクラシー」の概念にはずれがあり、後者が日本では実現されていない可能性もあります。ここからいくつかの仕方で問いを立てることができると思います。

(1)古代ギリシアでは素朴に同一視されていた民主制と民主主義とは、後代ギリシア的な統治形態が現実的に不可能になるにつれて分離されて認識されるようになったのではないか。だとすれば民主制、民衆支配とは区別される「民主主義」とは何か?

(2)「国民主権」をうたい民主制をとっていると思われる国家もその実、そもそもまったく民主制、「民衆支配」が実現されていないのではないか。

民主制と民主主義を同義的に扱う『一般意志2.0』は、第二の問いに即して読むべきであるかもしれません。この点はまた次回の読書会で確認しましょう。



次回3月22日(土)の〈3.11以降〉読書会は、ふたたび第一章から第三章までを読んで来て頂く箇所とします(読書会当日は4章以降も読んで来て頂くようにお願いしてしまいましたが、焦ってはダメですね)。有意義な読書会にしたいので、ぜひ少しでも本に目を通してから参加して頂ければと思います。

写真2

読書会ルール_第10回資料

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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