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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第8回

■ 日時:2013 年 11 月 23 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 6f ギャラリー4200
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

今回取り上げる本について
初回から何回かに渡って、まずはジャン=リュック・ナンシー著「フクシマの後で 破局・技術・民主主義」(渡名喜庸哲訳、以文社)をじっくりと読み解いていこうと思います。

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フクシマの後で 破局・技術・民主主義 / ジャン=リュック・ナンシー (著), 以文社

第一章には、ナンシーが、2011年12月17日に東洋大学で行ったウェブ講演会「ポスト福島の哲学」で発表された原稿を元にして公刊された文章が収められています。ジャン=リュック・ナンシーはフランスの(今も存命中の)哲学者で、渡名喜さんによる「訳者解題」によれば、「フランス現代思想」の系譜に位置するほとんど「最後の生き残り」であるそうです。読書会を進めるに当たっては、とにかく量よりも質を重視しますので、複数回にわたってようやくこの第一章全体を読み終えることになるでしょう。とはいえ文書の理解は文書の全体にも依りますから、参加前に第一章の全体に目を通しておくことをお勧めします。そのさいに各人が理解できなかった箇所、気にかかった箇所、印象的な箇所が必ずあるはずですから、そこを糸口にし、対話の力を媒介としながらも、本を深く読み解いていけるような読書会にしていきたいと思います。
綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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「震災を読み解くために」読書会の理念

私たちは、読書会というかたちで本を読むことが、単にひとりで本を読むときには得られないような、格別の効果をもたらすものだと考えます。

第一に、あるひとつのテキストを巡る多種多様な意見や思いに触れることによって、自分ひとりの理解がいかに特殊なものであるかを知ることができます。これを反対から言えば、本を読む営みのもつ豊かさに気づくことができるということです。ふだん多くの人にとって、ひとつの本を巡る解釈について誰かと熱く語り合う機会などそうないのではないでしょうか? そうだとしたら、ふだん自分がどのくらい特殊な読み方をしているのかもわからないはずです。それは「読みの複数性」と言い表わすことができるような、読むことのもつ豊かさを引き出せていないということです。さらにまた、テキストを共に読むことで、読書会に参加する人々の(普段は隠された)多様性や他者性――彼らが自分とは異なる人間であるということ――に気づくことができます。これも日常の当たり障りない会話においては得難い体験ではないでしょうか。

また、第二に、読書会に参加し、他の参加者と協力することによってテキストと真に向き合うことができるというのも、読書会のもたらす効果のひとつです。さらにこの読書会は、「震災を読み解くために」、あくまで〈震災〉という出来事と関連するテキストを取り上げる予定ですから、テキストと真摯に向き合い、共に参加する人々の力を借りながら、「自分なり」を超えた読み方で〈震災〉という出来事を見つめ直すことができるという点にも、この読書会に参加することの意義が見いだせるはずです。

私たちは読書会という読みのかたちがもつ特性を最大限活かしながら、深く〈震災を読み解く〉ということ、また、そのための〈読みの力〉を鍛え上げていくことを理念として掲げ、その実現へと向けた努力を――参加者の方々と共に――重ねていきたいと考えています。

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第8回レポート

写真11

今回の読書会は今年最後の読書会でした。用意した資料を片手に、これまでのおおまかな流れを確認したあと、第一章最後の部分をもういちど読んで議論しました。それから時間の許す限りで、みなさんに書いて来て頂いた文章を一緒に読んで、その文章を書いて下さった方のお考えをさらに詳しく聞いていくという仕方で進めていきました。

そもそもこの読書会の理念は、普段ひとびとが自分の思考や思想をいかに他人に伝えないまま日常をこなしているか、自分がいかに他人の思考や思想と触れあわず、そのつどの要件をこなすことに終始しているかということへの驚きから発して練られたものです。ですからここでは普段できないこと、すなわち自分の思考や思想を表明すること、他人の思考や思想を聴きとることのできる場所と時間を用意することを目指しました。確かにそれは「てつがくカフェ」の対話の場でも可能でしょう。しかし対話のようにその場に集まった人々のあいだでやりとりするだけでなく、テキスト、あるいはテキストの著者の声を聴きとるという仕方で他人の思想に、しかも長い時間をかけて触れられる場もあってもよいのではないか、そう考えて「読書会」という形式を選んだのです。それでこれまで7回はずっと『フクシマの後で』というテキストとその著者との“対話”に重点をおきながら――参加者どうしの対話という側面も含みつつ――やってきたわけですが、今回第8回はそれに加えてさらに、参加者各人の文章をも媒体として活用し、「他人の思考や思想を聴きとる」ことを実現させようということです。

これまでのおおまかな流れを筆者はつぎのようにまとめてみました(ほんとうに「大まかな」話としてください)。

人間という種の本質には技術を用いるということがあります。人間は他の動物とは異なって“自然”に不足を見て取ってそれを補おうとし、そのために技術を用いるのです。しかし技術は新たな欲求を、したがって新たな不足を生み出します。たとえば身体を暖めるための火の保存の技術にもとづいて、今度は土器や鉄を焼こうという欲求や、火力の不足という事態が生じたり、車が発明されたことによって、交通を整理するための諸々の装置、制度が必要となったり。そしてその新たな不足、新たな欲求を補うためにさらにまた新たな技術が生み出され、その新たな技術がまた新たな欲求を、新たな不足を・・・というようにして目的が手段を生み、手段が目的を生むという無限の連鎖へと続いていきます。そしてその連鎖の先端に、われわれの現代文明が位置しています。そこでは「手段と目的の連鎖」がこれまでないほどに複雑化し錯綜し、あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段となっています。ところであるものが何かの為の手段であるということは、当の目的を達成できる限り、そのものは他のものでも構わないことを意味します。

写真21

たとえば黒板に白い字を書くための“この”白いチョークが折れたとしても、また“別の”チョークを“代わりに”使えば済むことです。これらふたつの白いチョーク、それどころかすべての白いチョークは、互いに「交換可能」です。だからこそ同じ「値段」という名の価値を付けることもできます。こうした諸々の特徴――交換可能であるということ、見積もり可能であるということ――が、ナンシーが「等価性」ということで言い表わしていたことだと、これまでの読書会では理解してきたのでした。したがってあの無限の連鎖の先端で、「あらゆるものがあらゆるものの目的かつ手段」となっている現代は「あらゆるものがあらゆるものと等価性によって結びついている」時代だともいえます。そしてこの時代のこの特徴を如実に表したのが「フクシマ」という出来事、すなわち地震・津波の自然災害を起因とする原発事故が引き起こしたすべての出来事でした。「あらゆるものがあらゆるものと等価性によって結びついている」からこそ、局所的な自然災害が、政治的、経済的、社会的、哲学的な影響を、それこそ“グローバル”な規模で引き起こすことにもなったのです。あるいはヒロシマ、アウシュビッツもまた、ある目的の名のもとに民族が費やされる出来事でした。

ではこうして等価性の錯綜する現代文明の「布置」から抜け出すにはどうすればよいか、これが前々回から読んできた箇所の方向性だったと思います。資料にも引用したとおり、その際、わたしたちの注意を引きつけたのは次の箇所でした。

「逆に決定的なのは、現在において思考すること、そして現在を思考することではなかろうか。」(p. 64)

あるいは等価性とは反対のもの、「非等価性」を目指すとするならば、つぎの箇所の意味もまた問題となります。

「この非等価性が存在するのは、こうした特異的なもの――色や音や匂い――へと注意が向けられることによってである。」(p. 67)

前回、前々回とわたしたちが考え続けてきたのはこれらをどのように理解すべきかということでした。ナンシーは「特異的なもの」として「諸々の人々、瞬間、場所、振る舞い」等々を挙げますが、私たちは特に彼の「花見」への言及を手掛かりに多くの議論を重ねていました。とはいえやはり私たちがそれについてもっとも多く語り、問題の中心でありつづけたのはナンシーのいう「現在」でした。

「現在」の理解のためにわたしたちが参考としたのが、「われわれの近代文化」と他の文化とを比較しながら「現在」あるいは「現在化」について述べられている次の箇所です。

「ほかのどのような文化も、われわれの近代文化ほど、古文書や将来の予測を絶えず蓄えるという経験を持ちはしなかった。ほかのどのような文化も、過去や未来を現在化し、現在から、それに固有の過ぎ去りという性質を奪うことはなかった。逆に、ほかの文化はどれも、特異な現在的存在の接近に留意する術を知っていたのだ。」(p. 69)

わたしたちの文明はたえず「記録」を蓄え、将来の予測を立てています。リアルタイムでは観られなかったテレビ番組を録画したり、天気予報をみて週末の予定を立てたり。そして録画した番組を“いま”再生して視聴することによってまさに過去や未来を“現在化”しているのです。しかし前回ある方の挙げられた「ゴルフ中継」の例が教えてくれたように、いくら記録技術が発達したとしても「現在のものである」という性質、あるいは「臨場感」といったものは決して技術によって代替されることができません。中継映像だと思っていたものが「録画放送」だと分かったとたん、何かその映像は気の抜けたものと化してしまいます。「現在のものである」という性質、「臨場感」は技術によって代替することのできない「特異性」を有しているのであって、そしてほかの文化はどれもこのように特異な「現在的存在の接近に留意する術を知っていた」のだとナンシーはいうのです。前回「現在的存在」の意味が話題となりましたが、前回のレポートにも書いた通り「現在的存在」の原語は英語の“the presence”に対応し、それには俳優の「存在感」やまさにさきほど現在の特異性として言いあらわされた「臨場感」といった意味も含まれていることがわかりました。

前回は等価性と平等性との対比も話題となりました。等価性が交換可能性、通約可能性を意味したとしたら、平等性は交換不可能性、通約不可能性を意味するはずですが、そのような消極的な規定のほかにナンシーはさらに、「ここで平等性ということが指し示しているのは、あらゆる人間存在が尊厳の点で厳密に平等だということだ」(p. 70)ともいいます。では尊厳を認めること、(強い意味での)敬意を払うこととはいかなることか、もうすこし具体的に言い換えられないだろうかということで出た意見がふたつありました。ひとつは「そのものの存在を認めること」、もうひとつは「自分のモノサシでは測ることのできない価値のあることを認めること」でした。このふたつの意見がどのように関係にあるのだろうかという疑問を投げかけたところで前回は終わったのでした(とはいっても今回この点についての話はこれ以上進みませんでしたが)。



第一章の音読は前回すでに終えていましたが、今回ふたたび70ページの冒頭から最後までをある方に音読して頂きました。その方が今回初めての参加だったこともあり、音読を終えたあと読んだ箇所について思うところを尋ねてみました。するとつぎのようなことを仰ってくださいました。

《ナンシーが個々のものへの尊厳を大事にしようとする点には確かに共感がもてるが、しかし等価性も捨てがたいのではないか。というのも、あるものが「かけがいない」ということは、その代わりがないということであり、代わりがないということは不便ないし耐えがたいものであるように思えるからだ》

このような内容のご発言だったと思います。確かにもし“この”チョークが私にとって特別なもの、「かけがえない」もので、そしてもし“この”チョークが折れたりなくなったりしてしまったとしたら、私は決してその「代わりのもの」を見つけることはできず、深い悲しみに包まれるでしょう(チョークを例にしてもたんに滑稽でしかないですが)。代わりがあるということ、交換できるということ、等価なものがあるということは、個々のものの喪失に対するわれわれの用意であり反抗であるといえます。そして代わりのものが大量に用意されていることはなによりも「便利」な状況です。このような事情があるからこそわたしたちは――ナンシーの喚起しようと思っているものに反して――個々のものの特異性=非等価性をなるべく希薄化し、等価性を強化してきた側面もあります。

これを踏まえて先程の方は、《それにもかかわらずナンシーが「特異的なもの」へ注意を向けよという場合、彼はわれわれにあの便利さ、あるいは“このもの”の喪失に備えられているという安心感をも捨てよと言っているのか。しかしそんなことは現実的には不可能ではないのか。不可能なことを承知でたんに理想だけを述べているのだとしたら、それは無責任にさえ感じられる。》といった疑念を表明されました。さてこの鋭い問いに対してみなさんはどのように応じるでしょうか。

この問いに対する反応として、ある方は《便利さを追い求めていった結果が今であり、このまま突き進んでしまえば破局に追い込まれざるをえない。したがってそれを避けるためには等価性のもたらす「便利さ」を捨てさえしてナンシーのいう平等性へと歩まねばならない》というような発言をして下さいました。やはり破局を避けるには今現在ある便利さを捨てなければならないのでしょうか?

また他の方は(第10節の感想として)《現行の民主主義がほぼ原理として含んでしまっている「多数決」という制度は、少数派を無きものとし、その点で彼ら少数派への――たとえばセクシュアルマイノリティや発達障がいの方々への――「尊厳」に欠いている》と仰ってくださいました。したがって現在の民主主義にはあきらかに問題がある、ということだったと思います。

あるいはまた、ナンシーが自国の歴史を念頭においていることを顧慮すべきだと指摘して下さった方もいました。すなわちナンシーが「等価性は、フランス共和国が自由と博愛とのあいだに置いた、これら二つの観念の綜合ないし超克とみなしうるような平等性のことではない」(p. 70)というとき、《フランス共和国ははじめのうち、ナンシーがここで提示しようとしているものとまさに同じ「平等性」を掲げて「民主主義」を構想したのだが、いつのまにかその理念は見失われ、等価性にとって代わられていた。ナンシーはこのことを喚起しもういちど元の「平等性」を取り戻そうとしているように思える》とその方は仰ってくださいました。ナンシーのいう平等性はもとはといえばフランス共和国の理念に含まれていたにもかかわらず、いつの間にかその理念が失われ、いまあえてナンシーがその再生を叫ばなければならなくなってしまったのは一体なぜなんでしょうか。

(たしか)その答えとしてある方は、平等性を理念とした政治が等価性によって特徴づけられる政治に取って代わられる過程をつぎのように描写して下さいました。

《フランス共和国建国当初は平等という理念のもとに独裁制は遠ざけられ、多様な意見をもつものどうしで議論し合い話し合う過程を経ながらだんだんと合意が形成され、あくまでその結果として生まれた多数派に最終的な決定権が与えられた。しかし時が経つにつれ「多数派」が熟議を経ることなくすでに存在することとなり、さらには熟議の過程そのものも省略されたんに「多数決」だけが残ることになったのが現在のフランス、あるいは現在の“民主主義”ではないか。このような“民主主義”においては少数派の声は蔑ろにされ既存の多数派の有する「単一のモノサシ」があてがわれることによって政治のすべてが決定されることになる。》

そうだとすると「多数決」そのものが個々人への尊厳を欠いているわけではなく、多数決へと至る過程のなかに、あるいはその過程の省略において個々人の尊厳が蔑ろにされ、それゆえ個々人が等価に扱われていることになります。たしかに、個々人の多様な意見ひとつひとつを大切にするといっても、最終的には共同体として、社会として、国としてある決定を下さなければなりませんから(一人の王や何人かの貴族の決定にその他全員が従うのでもない限りは)多数決という方法を取らざるをえないはずです。そうだとすればナンシーのいう、あるいはフランス共和国の掲げた平等性に対立するのは「多数決の原理」ではなく、“熟議を欠いた民主主義”だといえます。そしてこの“熟議を欠いた民主主義”の別名が“現在のフランスの民主主義”あるいは“現存の民主主義”なのだと、先程の方のご意見を言い換えることができます。

すこし先程の問いの中心からは離れるかもしれませんが、さらに「民主主義」についての話題が続き、自由と平等の対立について言及して下さった方もいました。すなわち

《個々人の自由を完全に確保しようとすれば結局のところ生まれ持って配分された資源や才能の偏りにしたがって格差が増大し、けっして「平等」が保たれているとは言えない状況に陥る。対して福祉を充実させ平等性を確保するために「富の再分配」を行うならば、先のような“完全な自由”をいくらか侵害せざるをえないことになる。このようにして自由と平等とは対立している。》

と、このような趣旨のご発言だったと思います。しかしところで、ナンシーが平等性について述べている、さきほど引用した箇所の注には「あるいは、エティエンヌ・バリバールの言う平等自由(égaliberté)」(原注25)とあります(ちなみに手元のフランス語辞典を引くと“égal”が「等しい」、“égalité”が「平等」 、“liberté”が「自由」の意味です)。バリバールの「平等自由」についてわたしたちは何も知りませんが、とはいえ平等と自由は対立するという先ほどの方のご指摘が正しいとすれば、「平等」と「自由」とをくっつけたこの概念は「まっすぐな角」や「不機嫌なピエロ」(木村カエラ)のような(2つめは冗談だとしても)矛盾した、空虚な概念であることにならないでしょうか? しかしもし「平等自由」が矛盾した概念なのだとすれば、ナンシーは自身のいう「平等性」、あるいはフランス共和国のそれの“言い換え”としてバリバールの「平等自由」を挙げているのだから、その意味での「平等性」もまた矛盾した概念であることになります。ですからナンシーのいう「平等性」が無意味な概念でないとすれば、しかしまたさきほどのご指摘――個々人の“完全な自由”と“平等”とが対立するというご指摘――の妥当性もまた否定しきれないとすれば、ナンシーのいう平等性あるいはナンシーの想定する自由のどちらかは、さきほど対立するといわれた平等性や自由とは異なる事柄を意味しているのだと考えられます。たとえば「平等性」が(仮に)<資源配分の公平性>を含まないかたちで<人々が互いの尊厳を認めること>なのだとしたら、個々人の自由とナンシーのいう「平等性」とは矛盾しませんし、あるいはナンシーの想定する「自由」とは先程“完全な”と形容した(おそらく新自由主義者のいうような)自由ではないとしたら、フランス革命の理念でありナンシーが共感を抱く「平等性」と「自由」とは矛盾しないかもしれません。

さてそこで元の問い、極端化すれば「ナンシーは等価性を捨てて平等性を取れと言っているのか」とでも言えるような最初のあの方の問いに戻ってみたとき、確かに等価性と平等性とはまったく反対のものではありますが、果たしてほんとうに、ナンシーはわたしたちに等価性と平等性の「二者択一」を迫っているといえるのでしょうか? 多数決は確かに、個々人を単なる数へと還元してしまいます。しかし先程議論したところによれば、少数派も多数派と同様に尊重されるか、それとも蔑ろにされてしまうかは、多数決という決定方法そのものによって決まるのではなくて、それに至る過程がどうあるかに依存するのでした。そうだとすれば、たとえば私たちは多数決へ至る過程において個々人の意見を尊重し合いながら、最終的な決定の段階で多数決を取るということもできます。考えてみれば至極当たり前の意志決定のプロセスに思えますが、しかし現在この当たり前のプロセスさえ踏むことができなくなっているとすれば、意志決定への過程をふくめた、あるいはその過程以前の“いたるところで”個々人が互いに等価なものとして扱われているからでしょう。したがって、この現状に対してのナンシーの異議は、「等価性を捨てて平等性を取れ」というような二者択一を迫るものではなくて、「等価性」の過度の普遍性ないし一般性(すみませんが、このどちらかなのかはまだ分かっていません)に対してなのだとも考えられます。さらに踏み込んで、ナンシーの異議は(単なる)等価性に対してではなく「一般等価性」に対してなのだと言えるかもしれません。いずれにせよ当初は個々人を蔑ろにせざるをえないように見えた「多数決」は――個々人を数として、等価なものとして扱いざるをえないにしても――けっして個々人に対する尊厳の確保と相いれないものではありません。したがって政治の領域の一部に関しては、ナンシーはとくに「等価性と平等性の二者択一」を迫っていると断定することもできません。それでは他の領域についてはどうだろうか? ・・・と思考を進めることは、今回の読書中はできませんでしたが、レポートを読んで下さった方はそれぞれで考えてみてください。

ところで民主主義についてはまさに『フクシマの後で』の第三章で書かれています。いまわたしたちなりに考え着いたところより以上のことがそこには書かれているはずですから、余裕がある方は先に読んで頂いても構いませんし、そうでなくとも来年以降(いつになるかはわかりませんが)必ずこの読書会で読もうと思っていますので楽しみにしていてください。



こうしてとりあえず第一章の読解は終えて、ようやく皆さんの文章を題材とした議論と対話を始めることができました。時間も限られていたので、けっきょくみなさんで読めたのは4人の方の文章のみでした(せっかく書いてきて頂いたのに他の方には申し訳ありませんでしたし、しかも取り上げられた文章も急いで読んだ感がぬぐえませんでした...)

最初に読んだのはHさんの文章です。Hさんは4月の第一回目からずっと参加して下さっていましたが、その4月以来「等価性」に頭が満たされて「キーワードを見つけてはこういうことかなと思いをめぐらす」ようになったと書いてくださいました。それは具体的にどのようなキーワードかと尋ねたところ、たとえば「排除」という言葉が「等価性」を連想させたそうです。その言葉はまさに、今日の読書会中にご自身が発言して下さった多数決の問題点において、マイノリティの「排除」というかたちでも現れます。あるいは発達障がいの方のなかには爪楊枝の数を瞬時に数えられる方もいることを引き合いに出しながら、人の能力は他の社会や文化ではきわめて重宝されるかもしれないにもかかわらず現代の社会では無きものとして「排除」されているというようなとき、「等価性」を思い浮かべるとも仰っていました。また『フクシマの後で』の装画についても言及して下さいました。

写真3

この絵は原子炉であるように見えながらしかも都市――東京、仙台、札幌、名古屋等々の――にも見えると。つまり装画は、「大都市はまるで原子爆弾のように輝きを発してまわりをとりこみ巨大な力を発する原子炉のよう」とHさんが感想文に書かれたイメージそのものであるということでしょう。まだ他にも(特定秘密法案のことなど)お話しして頂いたり、この読書会を経てほんとうに色々な「イメージ」を抱かれたとのことでしたが、すみません、終わりの時間も差し迫っていたので、このあたりで次の方の文章に進ませて頂きました。

次はSさんの感想です。Sさんがまず「とても印象に残った」と書くのは「意味や方向の喪失としての破局」というイメージです。この点――ナンシーは確かにこのことを述べていたはずですが――筆者自身はこれまであまり強調しなかったですし、読書会中も集中的に議論の的になることもなかったように思ったので、印象に残ったとされるイメージかいかなるものかをより詳しく尋ねてみました。それを筆者が理解できたかぎりでいまここに書くとすると、一方には「始まり―終わり(終末)」という図式があって、これは単線的な時間の流れの中で成り立つ図式です。終末が悲劇的であるにせよそこで救済が訪れるにせよ、なんにせよとにかく「終末」ということがいわれるためには「始まり」と「終わり」、そしてそれらをつなぐ単線的な時間の流れがなくてはなりません。ところが他方、ナンシーのいう「破局」とは――とその方がいうには、と筆者が理解するには――もはや「始まり」や「終わり」も、またそれらをつなぐ単線的な時間のイメージも解体され、喪失された状態のことであり、このような「破局」のイメージが「とても印象に残った」のだと説明して下さいました。そしてそのような時間のイメージが解体された後で、この破局のなかで、ナンシーは「現在」から“始め”ようとする。この「現在」はあの「始まり」から「終わり」へ向かう時間のある一点を意味するのでは決してなく、客観的な時間点でもない、そのような「現在」について「新しいイメージを喚起することができて楽しかった」と書いてくださいました。

次にMさんの文章です。最初に断っておきたいのですが、他の参加者の方がMさんに、Mさんの考える「一般的等価性」とはどういうものか質問していたのですが、筆者はうまく聴きとれず、ここでそれを報告することができません・・・しかし今読み返してみると、その質問はMさんの文章の前半を理解するために必要不可欠であることが分かって、きちんと読書会中に聞きなおしておけばよかったとただただ後悔しています。ですのでMさんの文章の前半についてはこのレポートでは触れられません。とはいえそもそもその質問を聴き逃したのは、それほどまでに筆者の注意がこの文章の最後の箇所と、Mさんがこの文章に付け加えて今回の読書会中のみなさんのやりとりを聞きながら思ったこととして述べて下さったことへと向かっていたからです。文章の最後で、Mさんは「通約不可能なもの」を読んで思いついたのが「詩」であると述べられ、それというのも「詩」の「効用」といったものを考えても(どうとでも言えるにもかかわらず)どうしても腑に落ちないことがあるからだと書かれていました。この発言を聞いて筆者が考えていたのは、「効用」が等価性にむすびつくことはこれまで(少なくともレポートに書くほどには)読書会中取り上げられていなかったはずで、それゆえ筆者もそれらを結びつけて考えていなかったのに、「詩」が「通約不可能」であるのがそれについて納得のいく「効用」を考えられないからだという説明を聞いて、いったいなぜそれがすぐに“腑に落ちた”のだろうかということです。確かに現代は森林浴からタイ式マッサージまで、とにかく「効用」ということを考える時代です。しかもその「効用」は「科学的に」「実証」されていることが前提の効用です。「効用」という“強迫観念”とでも呼べるような観念はたしかに現代を特徴づけるワードのひとつには挙げられるでしょうが、なぜそれが「等価性」と結び付くのか。この点についてMさんの文章の最後の箇所を読んで考えさせられたのでした。とはいっても読書会中じっさいに議論の俎上に載ったのはむしろ、Mさんが今回の読書会中に考えられたこととして述べられたことでした。それは本文60項における現代文明の描写と第一章の最後、71項最後のある箇所を結びつけた発言でした。Mさんの参照された箇所は以下の通りです。

「われわれは〔...〕世界や人間をよりよいものにする、よりよく作り直すという観点でしか思考してこなかった。」(p. 60)

「明日のために平等性を要請すること、それはまず、今日それを肯定することであり〔...〕」(p. 70)

まずMさんが問うたのはなぜ平等性を「今日」肯定するのかということです。そしてその問いの答えとしてMさん自身が参照したのが60項のあの箇所であり、つまり《現代にいきる「われわれ」の思考と現代文明を特徴づける「よりよいものにする、よりよく作り直す」という観点での思考、“よりよい”未来(明日)を目指すということは、“今日”を否定してこそ成り立つものなのだから、その、未来の目的を目指すような、等価性を招き入れるような思考様式を捨て去ることはその反対、すなわち「今日」において(平等性を)「肯定する」ことによって為されなければならないからだ》と述べてくださいました。なるほどだからナンシーの議論は「現代文明の問題点―その解決方法」といったような形式では叙述しえなかったのでしょう。というのも「現代文明の問題点」を指摘することは同時に“今日”の否定と問題の解決された“よりより未来”を含意するからです。だからナンシーは第一章で“よりよい未来”を描けなかった、描かなかったのであり、だからこそ参加者の方のなかには、第一章「破局の等価性」の叙述がとにかく悲観的に映ってしまう方もいらっしゃったのでしょう。Mさんの挙げて下さったあのうえの二か所の対比は極めて鮮明でした(とはいえ「問題点―解決」の図式を奪われた私たちはいったいどのようにして「破局の等価性」と題されたこの文章を読んだらいいのでしょうか。筆者にもまだわかりません)。また、Mさんのこの発言に対しては《肯定される「今日」はしかし「昨日の明日」ではないか。「今日」とはいつか?》という問いも投げかけられました。この問いはまず「今日とはいつからいつまでか」という問いとも取れますし、むしろこの後者の問い方そのものが不適切で、「今日」とはナンシーのいう「現在」のことであるとも考えられます。しかし「今日とはいつか?」というこの問いについて筆者はまだ答えられません。レポートを読んで下さった方もぜひもういちど考えてみてください。

そして今日の(そして今年の)読書会最後はNさんの文章で締めさせて頂きました(とはいっても時間が来て会場を追いだされるように終わってしまったので、とても「締めさせて頂いた」とは言える終わり方ではありませんでしたが)。Nさんの文章では震災後ないし現代日本の現状が巧みに描写されつつ、同時に、この読書会で得られたアイディアや観点も盛り込まれているのだと、(僭越ながら)筆者はそのような感想を抱きました。Nさんの文章も最下部に掲載されていますのでNさんによる現状描写は各々が読んで確認して頂くとして、まず筆者がNさんに尋ねたのは、Nさんがご自身の文章を要約せられながら述べられた「知性」と「感性」との対比についてです。読書会ではこれまで、ナンシーが未来や過去へと逃れ出るあり方を糾弾し、そうではなく「現在」において、「現在」を思考することを喚起していることを確認してきましたが、Nさんは前者の、等価性を招くあり方を「知性」、後者の「現在」へ向かうあり方を「感性」と対応づけて考えられていました。思えば確かに、花や月を愛でることは感性的な営為と言えますし、あるイデオロギーに過剰に没頭してしまうのは知性の偏った働きのせいだと考えられます。また時間性という点でみても、未来や過去の観念・概念を抱くのは「知性」の領域においてのことであり、現在のことほど「感性」の領域に属すと言えそうです。知性/感性と等価性/非等価性や目的-手段連関/「現在」といった対を比較して考えられることがNさんの文章を読んで初めてわかりました。とはいえ「知性」や「感性」といった語の意味はつきつめて考える必要もあるでしょう。また、Nさんの文章のなかでの《個々の地域は盲目に(知性に偏った)“豊かさ”を求めて生活向上を目指すのではなく、その土地の海・川・山の感性的に捉えられるよさ、美しさに目を向けるべきではないか》という主張に対して、ある方から《福島にはもう美しい海が失われているではないか》という指摘が発せられました。これは筆者には「反論」ではないように思えます。原発事故は「とり返しのつかない」ものだからこそ破局なのであり、そしてわたしたちがいま次の破局の前にいるのだとしたら、次の破局、「とり返しのつかない」事態を引き起こさないためにこそ(Nさんの御言葉を借りれば)「感性的なもの」、自然へと眼差しを向け、「美しい海」に目を向けるべきであると言えると思うのです。

ところで実はこの話は、読書会中にこれまでにまだ書けていなかったある文脈で出た話と関連しています。それはある方の「六ヶ所村」の映画についてのご感想から派生した議論でした。その映画を観た方がおっしゃるには、その映画には六ヶ所村の漁師へのインタビューが含まれており、そのインタビューで漁師は「原発などいらない、魚さえ取れれば生活していける」と答えていたそうです。しかしそれに対して別の方が仰ったように《確かに今身の周りにあるもののほとんどはそれが無くとも生活していけるものばかりだろうが、しかしわれわれはどうしてもそれ以上のもの=“豊かさ”を求めてしまう。そして生活に必要な分以上のもの=“豊かさ”を求める限り、生活に必要な分以上のものを稼がなければいけなくなる。単純に生きていくのに必要ないというだけで原発はいらないと言える人は(あの漁師のように)いるだろうが多くないのではないか》。さらに付け加えてその方は《ところでこの“豊かさ”とはどのような「尺度」で測られるのか?》とも問うていました。原発を誘致した地域はもしかしたら、Nさんのいう「知性」に偏重した「尺度」で“豊かさ”を測って追い求め、その結果あたかも「原発」がその地域に無くてはならないもののように映ったのかもしれません。しかしもし“豊かさ”の尺度がNさんのいう「感性」に則ったものだったとしたら、原発がそんなふうには映らなかったのではないでしょうか。だから、あのような破局を避けるために感性的に捉えられるよさ、自然の美しさに目を向けるべきだという主張はいわゆる「原発村」にこそ当てはめられるべきであって、「原発村」が反例になるわけではないように思います。

当日はここまで話したところで会場の閉鎖が告げられ、みんなで急いで帰り支度をすることになりました。じつに尻切れトンボな終わり方をしてしまいましたが、やはりもう少し皆さんのご感想を詳しく聞いてみたいという気持がありますので、次回1月も引き続きみなさんのご感想を読む回にしようと考えています。今回読めなかった方の文章はもちろん、今回出席できなかった方やもう一度書いてきたいと言う方の文章も随時募集しておりますので、メールで送って頂いてもいいですし(綿引:philcfsendaiaw@gmail.com)、今回多くの方がそうしたように当日紙媒体で持って来て頂いても構いません。

ということで、今年はお疲れさまでした! まだだいぶ早いですが良いお年をお過ごしください。1月25日(土)にまたみなさんとお会いできるのを楽しみにしています。

第8回震災を読み解く読書会資料(PDFファイル)
読書会感想文まとめ(PDFファイル)

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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