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せんだいメディアテーク
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てつがくカフェ

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第11回

■ 日時:2014 年 3 月 22 日(土)17:00−19:00
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ。課題本をご持参ください。
■ 問合せ:philcfsendaiaw@gmail.com (綿引)
■ 主催:せんだいメディアテーク、てつがくカフェ@せんだい
■ 助成:財団法人 地域創造

 

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この「読書会」について
「読書会」は、あるひとつの本を取り上げ、それを参加者みんなで一緒に読んでいくものです。この読書会では、ほかの人々と共に読むということを最大限活かし、ひとつの本に対する人々の多様な「読み方」を大切にします。そうして参加者どうしが協力し合い、触発し合って、〈震災〉という出来事を――それを直接に扱う「震災関連書」をひとりで読むだけでは辿りつけないようなところまで――深く「読み解く」ことができるような場でありたいと願っています。

課題本
東 浩紀著「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」(講談社)

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てつがくカフェとは
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。

てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

〈3.11以降〉読書会-震災を読み解くために-第11回レポート

写真1
今回取り上げた箇所:『一般意志2.0』第一章から第三章
進め方:参加者の方に出してもらった「問い」――なぜ著者は(著者の語るルソーは)こんなことをいうのか? この語の意味は? これとあれとの関係はどうなっているのか?――にみんなで取り組む

参加者の出した問い:
・ルソー『社会契約論』は矛盾しているのか? 個人主義と全体主義は矛盾するのか?
・個人主義的でありなおかつ全体主義的であるというふたつの顔をルソーがもつことをどう理解すればよいか?
・「空気を読む」というときの、「空気」とは何か?
・ルソーの生きた時代と現代とで技術の様相は大きく変化したにもかかわらず、ほんとうにルソーの政治思想と著者が情報技術を用いて実現できるとする政治は一致するのか?

対話の大まかな流れ:
・個人主義者としてのルソーと全体主義者としてのルソー。ルソーがふたつの顔をもつように見えることをどのように理解すべきか?
・そもそも「個人主義」と「全体主義」は対立するのか? そもそも個人主義とは何であり、全体主義とは何であるのか?

⎫ 個人主義:全体より個人を“優先する”立場。全体主義:個人より全体を“優先する”立場ととりあえず定義してみる。

・こう定義したとき、個人主義と全体主義は対立するのか?

⎫ 「全体」をどう捉えるかによるのではないか。

・個々人の意見、意志の“共通部分”を全体の意志としたら全体の意志と個々人の意志は対立しないのではないか?

⎫ しかしルソーの「一般意志」は、少なくとも、熟議を通して形成される「合意」ではない。それどころかルソーはコミュニケーション無き政治を描いている…

次回に持ち越す問い:
・一般意志とは何か?
・(一般意志の正確さやよしあしの基準はなにか)
・統治機構の前に一般意志を想定したルソーの意図は何か?
・コミュニケーション抜きで政治ができるのか?
・モノとしての一般意志に「従う」とはどういうことか?

次回の読書会:
・第二章の内容を読み解くところから
・第二章以降(できたら第六章まで)を読んできて、たとえば「なぜ著者(あるいはルソー)はこんなことを言うのか」、「この言葉の意味はなにか」、「この文とこの文の関係はどうなっているのか」等々の視点で「問い」をひとつは作って持って来てみてください。
・「問い」とは別に、重要だと思う単語=キーワードをピックアップしてきて下さい。できたら、なぜそれが重要だと思うのか考えてみてください。

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結局、今日取り組めたのは第一章で述べられているルソーの矛盾(エルンスト・カッシーラーが「ジャン=ジャック・ルソー問題」と名づけたもの)にまつわる問いのみでしたが、この問いにかかわるなかで第二章以降、部分的には第四章以降の内容も先取り出来ていたと思います。次回は今回話した内容を踏まえた問いからまた始めていくつもりです。
本文で「矛盾」と呼ばれているのは、近代的な「私」を創出し、悟性(物事を判断・理解する思考力、知性)に対して感情の価値を、権力に対して自由の価値を訴えた(27項)「個人主義者」としてのルソーと、『社会契約論』が実際にそう読まれてきたことがあるように、「全体主義者」としてのルソーというふたつの面をルソーがもつことでした。
これに対して当日は、「そもそも個人主義と全体主義は矛盾するのか」という観点の問いが出て、「そもそも個人主義とは、全体主義とは何か」という話になりました。確かに、これらふたつのイズムの内容如何によっては、ルソーがその「ふたつの顔」をもつことはそもそも矛盾ではないことになります。個人主義と全体主義というふたつの主義の見かけ上の対立を解消することによって「ジャン=ジャック・ルソー問題」を解くという手立てもありうるでしょう。この意見も踏まえて、ルソーの思想を特徴づける仕方として、さしあたりつぎの4つのパターンが考えられます。
ルソー(の思想)は

①個人主義的
②全体主義的
③個人主義的かつ全体主義的であり、それゆえ矛盾を抱えている。
④個人主義的かつ全体主義的であり、にもかかわらず矛盾はない。

本文で描写されるルソー(の思想)は実際のところ、このうちのどれに分類されるべきなのでしょうか。言い換えれば、ルソーの思想を特徴づけるのに、このうちのどれが一番適切なのでしょうか。単にラベルを貼って安心したいというわけではなく、ルソーの思い描く政治を理解するための足がかりとなる作業です。
全体主義と個人主義の違いについて第一に言及されていたのは「教育」でした。「自然」で「自発的」に子どもを育てる教育を個人主義に、既存の「徳」や「真理」を子どもに教え込む教育を全体主義にむすびつけた議論でした。興味深い論点でしたが、今日の対話、そして本文の内容からは比較的独立した観点での発言でした。
先ほどの問いに直接取り組む対話は、「個人主義的」という言葉にもふたつの区別されるべき意味があるのではないかと仰って下さった方の発言から始まったように思います。つまり、「みんなにとってはどうでもいいような個人的(私的)なこと」を表明したりすること(たとえば昨日も今日も爪を切るのを忘れたことをみんなに向っていうなど)を個人主義的ということもあれば、個々人の自由や平等を認めるという意味で個人主義ということもあり、これらふたつは(重なる部分もあるかもしれないが)異なるのではないかという発言です。そして全体主義と対比されるべきは、この後者の意味における個人主義だと。
この発言を発端として様々な話がありましたが、それぞれで共通していた「全体主義」、それと対比される「個人主義」という言葉の意味は、とりあえず次のように定められました。

・個人主義:全体よりも個人を“優先する”立場
・全体主義:個人よりも全体を“優先する“立場

もし個人主義と全体主義とがこのような意味をもつのであれば、ふたつの主義、立場は対立せざるを得ないのではないかと筆者は読書会中発言しました。したがってひとりの人物が同時に個人主義者でありかつ全体主義者であることは不可能であることになり、もしルソーが『社会契約論』で全体主義的な主張を、その他の著作で個人主義的な主張をなしているとすれば、ルソー自身は内部に矛盾を抱えることになります(つまり③の場合)。
しかし筆者のこの発言に対して、〈全体〉の内容如何によっては、ふたつの立場は矛盾しないのではないかという異議があがりました。つまりまだ、うえでいう④のパターンがありうるという異議です。
そこで〈全体〉として思いつくものを挙げていきました。まず「国家」があります。ほかにも「世論」や「空気」があります。「Jリーグのサポーター」もひとつの〈全体〉であり、その一部の人間が為したことによって〈全体〉の責任が問われることがあります。「集団」と「組織」を区別して、前者は人間の集まりにすぎないが、後者はある目的のために秩序づけられ、役割を充てられた個々人の集合であり、自分の所属していたのは組織ではなく集団でしかなかったと述べて下さった方もいました。ただしその方のいう「集団」もひとつの〈全体〉を成していると認めるならば、ルソーの想定する「社会」、「共同体」は、その方のいう「集団」に近いような気がします。また、個々人の「集合」が〈全体〉ではないかという意見もありました。そしてそうであれば個人と全体とは対立しないのではないかと。これは、個々人の意見の集計が全体の意見であるのだから、全体の意見は個々人の意見と対立しないということだったでしょうか。とはいえ多数派の意見が全体の意見と同一視されるならば、少数派の意見はそれによって押し殺されざるをえませんから、この場合は個と全体は対立します。
そこで「空気」という言葉を取り上げて、個と全体との区別が無効ではないかという意見が出ました。“個々人”の意見とは「空気」に従ってなんとなく形成され、また“全体”の意見、意志というのもなんとなく、「空気」として形成されるというように、個と全体との境界があいまいだと捉えることもできます。そしてもしルソーが「個」と「全体」についてこのような考え方をしているとすれば、彼を「個人主義者」や「全体主義者」としてラベリングすることも無意味です。したがって、ルソーの思想を特徴づけるもうひとつの可能性として「⑤個人主義者でも全体主義者でもない」場合を考えなければなりません。
しかしルソーは「特殊意志」とその多様性を一般意志の正確さの土台として想定しています。ルソーはやはり、〈全体〉とその意志(一般意志)と、個々人とその意志(特殊意志)との区別を前提とはしていないでしょうか。しかしそうだとしても、「一般意志」の捉え方によっては全体、共同体の意志と個々人の意志は対立しない、と考えることができるかもしれません。「わたしの意志は共同体の意志であり、共同体の意志はわたしの意志である」ような事態がありうるかもしれません。そしてこのような事態として、たとえばAさん、Bさん、Cさんの意見の共通部分を全体の意見とする場合が考えられます。下の斜線部としてイメージされるような共通意見を全体の意見とすれば、すくなくとも各々の意志の一部は全体の意志と同一です。
しかし各構成員の共通性を抽出して個と全体の対立を解くには、そもそも共通する部分がなければなりません。共通部分が無い場合に多数派の意志を全体の意志とするなら、やはり少数派の意志と全体のそれとは対立することになります。しかし「個人」とはin-dividual、それ以上は不可分なものの呼称なのだから、個人のある部分を他人と共有することなどありえない、という意見もありました。(しかし人間はすくなくとも、動物としての共通性を必ず持つのではないだろうか、とレポートを書いていて思いました)。
では、熟議を通して「合意」を形成し、「共通部分」を作り出すのはどうでしょうか? あるいはたとえ「合意」が形成できなくとも、熟議を介し、個々人の意見に耳を傾けた結果に生み出された「全体の意志」に個人が従うのであれば、それはいわゆる「全体主義」とは一線を画すようにも思えます。
ところが先ほども書いた通り、著者によればルソーは特殊意志の多様性が増すほど「一般意志」はより“よい”ものになると考え、差異を解消してしまう「コミュニケーション」はなるべく排すべきだと主張しています。しかし「合意」として形成されうる全体的な意志、その意味での個々人の意見の共通部分ではないとしたら、ルソーの考える「一般意志」とは何であるのだろうか? コミュニケーションを排してこそ存在する「一般意志」に従うことは、個々人の意志と対立を引き起こしはしないのだろうか?
こうしてわれわれは、第二章、第三章に関して何人かの方々が提出して下さった「問い」を問うよう動機づけられることになります。
・そもそも一般意志とは何か?

・(一般意志の「正確さ」とは何か? より“よい”一般意志の基準は何か?)
・ 統治機構の前に一般意志を想定したルソーの意図は何か?
・コミュニケーション抜きで政治ができるのか?
・モノとしての一般意志に「従う」とはどういうことか?

次回はこれらの問い+次回までに皆さんに用意してきて頂く「問い」と、さらに(読書会中には言っていませんでしたが)皆さんが重要だと思う言葉、「キーワード」を集めたうえで、上手い「問い」をつくり上げるところから始めて、テキストを参照しつつ、参照することによって、その「問い」に取り組んでいければと思います。一応、できたら第六章までに眼を通して来て下さい。次回は第二章から始める予定です。(ちなみに今回は第三章の内容まで読みとおすと予告しながら、第一章にかんする問いへの取り組みに終始しました)

一般意志2.0_第一章から第三章の議論の骨子_第11回資料

報告:綿引周(てつがくカフェ@せんだい)

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