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てつがくカフェ

てつがくカフェ第61回「いま、『選ぶこと』の意味を問い直す」

 

■ 日時:2017 年 6 月 18 日(日)15:00-17:30
■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ ファシリテーター:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
■ ファシリテーショングラフィック:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ

 

《今回の問いかけ》

 東日本大震災から、今年で7年目を迎えます。この6年数ヶ月という年月は、わたしたちがどこで、誰と、またどのように生きていくのかという〈選択〉にそのつどさらされ続けてきた期間と言えるでしょう。その〈選択〉は個々人の生活に関わるレベルのものもあれば、家族、そして今後の町全体の方向性を決めてしまうような、多くの地域住民の生活に影響を与えるレベルのものもあったはずです。くわえて、その〈選択〉は、自分の意思にもとづいてなされたものである場合、あるいは、なかば強制的に迫られた状況での場合もあったのではないでしょうか。もちろん、〈選択〉の余地すら与えられなかったケースがあり得たことも、いまだに故郷への帰還が叶わず、依然として避難生活を余儀なくされている避難者の方々の存在を思えば容易に想像がつきます。

震災から6年という時間は、考えようによっては厄介な時期と言えなくもありません。というのも、震災直後からこれまで、わたしたちが〈選択〉してきたこと/してこなかったこと、〈選択〉が許されなかったこと/〈選択〉を許さなかったことなど、「選ぶこと」に関わるそれぞれの違いが具体的に目に見えるかたちで、ひとつの結果として(その〈選択〉が正しかったのか誤りであったのかも含めて)現れ始める時期だからです。人によっては、自分のその〈選択〉に何らかの責任を感じている方もいらっしゃるかもしれません。また、他人にそれを〈選択〉させてしまったことへの強い負い目を感じている方もいらっしゃるでしょう。

震災という非常事態のなかで何かを選ぶ/選ばせる/選ばせないということの意味について、震災後6年のこのタイミングで、一度、問い直してみてもよいように思います。なぜなら、わたしたちはこれからも、許された状況のなかで、選び続けていかなければならないからです。

「選ぶこと」の意味やその責任の所在を明確にすることはとても難しいことです。たとえば自主避難を「選ぶこと」は、たとえそれが本人の〈選択〉(自己判断)に基づいたものという体裁をとっていたとしても、その〈選択〉の結果を単純に「本人の責任」だと言い切ることは難しいのではないでしょうか。そういった難しさも含めて、今回の「てつがくカフェ」では、何かを「選ぶこと」(選んできたこと)の意味について問い直してみたいと思います。

(てつがくカフェ@せんだい 近田真美子)

 

◆ 問合せ:mmp0861@gmail.com(てつがくカフェ@せんだい 西村)
◆ 主催:てつがくカフェ@せんだい、せんだいメディアテーク
◆ 助成:一般財団法人 地域創造

 

《てつがくカフェとは》
てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。
てつがくカフェ@せんだい http://tetsugaku.masa-mune.jp

てつがくカフェ第61回「いま、『選ぶこと』の意味を問い直す」レポート



震災から6年目の春。原発事故による影響で避難を余儀なくされていた一部の町村の避難指示が解除されました。はたして、自主避難を「選ぶこと」は「本人の責任」であると言い切れるのだろうかという問いかけとともに、対話が始まりました。

「選択」には、予測できる「能力」や「判断基準」が必要なのではないか。
「選ぶ」といっても、予め決まった「枠」の中で選択しているのではないか。

 

はじめに、個人が「選択」できるための能力(予測できる力や経験に裏打ちされた判断基準)や、はたして私たちは本当に「選択」できているのかなど、選択に纏わる様々な疑問を出すところから考えていきました。そして、ある参加者の「今日は、レストランでスパゲティを『自然』に選びました」という発言を受けて、そもそも「選ぶ」という営みは、どのようなプロセスやタイミングを経て決まるのだろうかという話になりました。はたして、ここでいう「自然」とは、「無意識」のことを指すのでしょうか。それとも「本能」のことを指すのでしょうか。一方、「自然」ではなく「意識」して「選択」する場合、自分の意思でとは言いつつも、選択の範囲が予め決まった「枠」の中で選んでいたり、他者から選択を迫られる形で決める場合もあることを踏まえると、「自由」に選んでいるとは言い難いともいえるのではないでしょうか。さらに、誰しも、この世に産まれることを「選択できなかった」り、嫁ぎ先の風習や文化、家族のために選択せざるを得ない状況がある事実を踏まえると、「選択」とは「個人」に限定された営みではないとも言えそうです。そうなると、「選択」にまとわりつく「責任」とは、はたしてどこの/誰にあるのでしょうか。

考えれば考えるほど、新たな問いが浮かんできます。ただ、ここまでくると、冒頭で掲げた「選ぶこと」と「本人の責任」の関係性が、一筋縄ではいかないことが見えてくるでしょう。震災から6年を経た今、「選ぶこと」の複雑さを噛み締めながら、これからも問い続けていきたいと思います。



報告:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)

 

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