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いま、貞山運河を考える

2012年 第4回「貞山運河と暮らし」

■ 日時:2012 年 11 月 28 日(水)18:00−19:30

■ 会場:せんだいメディアテーク 7f スタジオa
■ 参加無料、申込不要、直接会場へ

■ 問合せ:tel・fax 022-222-0250(上原)

■ 主催:せんだいメディアテーク/いま、貞山運河を考える会

 

400年貞山運河と共に生きた暮らしを復元し、
もう一度運河と共に生きる方策はあるのか?
これから貞山運河は地域の生活の中にどのように蘇るのか?
運河と共存した新しい暮らしを考えよう。

被災地を貫く貞山運河(ていざんうんが)。

木曳堀、新堀、御船入堀、東名運河、北上運河からなる貞山運河は、

旧北上川河口から阿武隈川河口までを結ぶ日本一長い運河であり、
慶長2年(1557年)から明治17年(1884年)にかけてつくられた、
宮城県の誇る歴史遺産です。
かつてこれらの運河は、それぞれに異なる役割を持ち、藩米や木材などの輸送のために、また野蒜築港運用のために開削されたものでしたが、近年では、農業用排水路、ボートの係留地として、またサイクリングなどレジャーに活用される、地域住民のいこいの場でした。

これまで貞山運河に関わりのあった人、

震災後、初めてこの場所が気になりはじめた人、
それぞれの立場から、いま、貞山運河に思うことを話しあってみませんか。

2年目となる今年は、各回テーマごとに考えを深め、市民の声をまとめていきます。

※ここでいう貞山運河とは、北上運河、東名運河、御船入堀、新堀、木曳堀を指します。
※この企画は、ヒアリングした意見を集約し、自治体に提言する案をまとめるものではありません。
※イベント当日は、イベントのレポートとしてウェブサイトに公開するために、会場の様子を写真撮影します。

 

2012年 第4回 いま、貞山運河を考える「貞山運河と暮らし」レポート



せんだいメディアテークで「考えるテーブル『いま、貞山運河を考える』」の第4回が11月28日(水)に開催され、約30人の皆さんが、「貞山運河と暮らし』というテーマで3グループに分かれて話し合いました。

******** はじめに *********

■「考えるテーブル」では、震災復興や地域社会・表現活動について考えていく場として主催者やゲストだけが話すのではなく、参加者の皆さんも対等に話せるような場を創ろうという趣旨で設けている。その中で、「いま、貞山運河を考える』は昨年震災後メディアテークが再開した時からやってきているもので、宮城県沿岸部にある貞山運河を貴重な歴史遺産として考えていきたい…と、この場を設けた。
今年度は5回に分けてその都度テーマを設け皆さんと一緒にいろいろなアイディアを出していこうということで、今日は「貞山運河と暮らし』というテーマのもと、参加者同士で和気あいあい会話できるような場づくりをしたい。対話の様子は音声録音のうえ文字起こしを行い、貞山運河についてのいろいろな意見をまとめ、情報発信していきたい。

******** 進め方のルール *********

■ グループ分け⇒ 多くの人の意見を集める。多くの意見を記録するが、記録の中では個人名は伏せる。
■ テーマに沿って話す。   ⇒ 今日は「貞山運河と暮らし』。
■ マイクを持った人が話す。 ⇒ ひとりの話を皆が聴く。出された意見をまとめてメディアテークから発信する。
■ 話し足りないときは…。  ⇒ テーブルに直接書き込んだりメモやアンケートに記入したり…。
■ 部数が足りない資料は…。 ⇒ “回覧”で…。
■ 今日の進め方 ⇒ 前回の話し合いの内容報告
話題提供
3つのテーブルに分かれての話し合い
各テーブルの内容発表
全体討議

******** 前回の報告 *********

■ 配布資料及び「考えるテーブル』ホームページ「いま、貞山運河を考える」第3回「貞山運河の活用と防災」参照。9月26日(水)参加者約30人3グループでの話合い。
■ 話題提供①宮城県内各自治体・県・国の復興計画。
■ 話題提供②「貞山運河魅力再発見協議会』関連の9年間の活動状況。“提言書”の内容。
■ 各グループでの話合い:①津波防災、②海岸浸食、③雨水排水洪水防止機能…など。



******** 話題提供 [1] 『貞山運河沿線での暮らし~昔の写真と記録から~』*********

■ 貞山運河は280年かけて完成された。これだけの歳月をかけ、一つの事業が次の時代へと受け継がれていったというのは桁外れのことではないだろうか。
貞山運河のほとりでどんな暮らしがあったのか。水の流れがあることによって運河の両脇で人々の暮らしが生み出されていった。消えかかったり忘れかかったりしているものをもう一度掘り起こし記憶を語り継ぎ未来につなげていきたい。
■ “ジョレン”を使った貞山堀でのシジミ漁の様子を写した20年前の写真がある。明治以来シジミ漁が盛んで大量に採れていた。1日3時間の短時間の漁でも疲れて『あとは寝ている』と言っていた。採ったシジミを深沼橋南側の火の見櫓の所に集め、石場の女の人たちがそれを背負ったり荷車に積んだりして仙台の町に売りに行った。相当売れたらしい。漁協で毎年百万程の金をかけて稚貝を放流していたが、だんだん採れなくなってきた。



■ 次の写真は貞山堀の堤防沿いの道を墓参りに出かける情景。写真家、小野幹さんが撮影した。深沼橋の付近を子供をおぶったりやかんを持ったりして浄土寺のお墓に出かけるところ。こうやって人々は堀沿いの道を歩いて墓参りに行ったり買い物に出かけたり…という暮らしをしていた。
■ そして同じ場所の震災後の写真がこれ。以前の写真にあった、暮らしと町並みは消えてしまった。
■ 20年ほど前『ふるさと七郷』という本を作る際、荒浜の方にお話を聞いた。その方のおばあさんが荒浜に嫁入りした頃、明治15年から始まった貞山運河の改修工事に駆り出されたという。掘った土はモッコでかついで堀の東側に積み上げ、さらに馬で200mほど離れた海側に運んだ。それが今の海岸通りの原型になっている…とのことだった。貞山運河を造るに当って荒浜付近の15軒の家が移転しなければならなかった。その際、貞山運河の東側は荒れ地で他の所に移らざるを得なかったそうだ。
『高砂の歴史』という本によると、今の貞山運河が開かれる前、明治3年のころ、閖上から蒲生に別の運河が開かれていたという。点在していた沼や堀を繋いで繋いで、1年くらいで航路が整えられた。貞山運河を調べたら、内陸側に“もうひとつの運河”があったことがわかったという。そのことを記録している石碑も蒲生に残っていた。
■ この貞山運河を行き来していたポンポン船や蒸気船について蒲生に住んでいた年配の方々から話を聞いた。焼玉エンジンで一日一往復の定期運行をしており、松島までの修学旅行の団体も受け入れていた。米を運ぶ船も岩沼から来て、帰り道は塩竈から魚を仕入れて荒浜で売っていた。
人々のために知恵を働かせて商売していた人達がいたのだ。
地元の人たちに“シンザンモータ”と“ニランツァンモータ”とよばれていた2艘の船が蒲生から塩竈に行き来し、よくそれに乗って鹽竈神社にお参りに行ったり花見に行ったりしたという。雨の日には船の上に赤い旗がはためいてその日はお休み…という話を聞き、風の強い日に船が波に揺れながら赤い旗をはためかせている光景を思い浮かべた。

■ 戦前、荒浜小学校の先生が『七郷郷土読本』という本を作っている。その先生はつづりかたなどをやっておられたようだが、地元の子供たちにいろいろなことを伝えようとこのような本を作られたのだろう。私達はこのように暮らしの記憶を次の世代に繋いでいく必要があると感じる。その中にある 「テイザンボリ」という文章がいい。

*********「テイザンボリ」*********
今日は私たちの遠足です。私たちは貞山堀をモータで東宮(ひがしみや:塩竈の東南東、宮城県宮城郡七ヶ浜町東宮浜地区にある東宮神社)に行くのです。お空が晴れて気持ちようございます。私たちはうれしくなって唱歌を歌い始めました。私のお母さんやみんなのお母さんが橋の上でにこにこ笑っています。しばらくたつと船が動き始めました。バンザイ!と誰かが大きな声で叫びました。私たちも大きな声でバンザイ!バンザイ!と言いました。うれしくてたまりません。橋の上に立っていたみんなの顔がだんだん小さくなってしまいました。もうお母さんの顔も見えません。川の水がきれいに澄んで両側にある松の影がきれいに映っています。どこかでかっこうどりが鳴いています。松林の中に赤く見えるのはツツジの花でしょう。
しばらく行くと船が止まりました。どうしたのでしょう。浅いから止まったのです。だから時々掘らなければならないのです。掘るのですか?そうです。この貞山堀もずっと昔みんなが掘ったのです。先生が小さい時ですか?いいえ先生もみんなのお父さんもお母さんも生まれません。生まれないずっと昔で、その頃は自動車も電車もありませんし、立派な道も無くみんなの知っている鹽竈神社に行くのも大変な難儀をしたのです。だから大きな物や重い物などはとても運ばれませんでした。それでどうにかしてここを川にして船を通したらとお考えになったのがその時の仙台の殿様伊達政宗公という偉い方です。それで貞山堀という名をつけたのだそうです。
そして大勢の人がのみや唐鍬で長い間かかってようやく掘ったのです。ごらんなさい。こんな大きな川が閖上の向こうから私たちの荒浜を通って塩竈まで掘ってあるのです。今のように便利な機械などありませんでしたから、どんなに難儀したかわかりませんね…と先生が言って私たちを見てにっこりお笑いになりました。初めて聞いた貞山堀の話。ここが掘った川とはどうして思えましょう。私たちはきれいな川をじっと見ながら行きました。……(『七郷郷土読本』より)

■ これを見て感じるのは、貞山堀の水が澄んでいて本当にきれいだったということ。
また、子供たちの文章にある“松の木が水に映り込む”というのは、どんなに美しかったか、と思う。
昔の記憶を掘り起こしてその豊かさを伝え、この貞山堀のきれいな水辺を何とか取り戻せないものだろうか。



******** 話題提供 [2]『荒浜住民から』*********

■ 若林区荒浜で生まれ育ち漁業を営む者、プレジャーボートを所有し貞山運河に係留していたが津波で流されてしまった者、20~30年前に荒浜に移り住んだ者など荒浜で暮らしてきた者6名。
■ 荒浜は政宗が貞山堀を開く前からあった集落地。貞山堀ができてからは生活に直結していた。淡水と塩水が混じる汽水域でシジミやハゼなどが獲れ、海水浴の後は貞山堀の水で体を洗い砂を落とした。底が見えるほどきれいだった水が汚れ始めたのは、貞山堀の水門が南蒲生に設けられそれが閉じたままにされたことが大きい。それまで潮の干満で行ったり来たりしていた水の流れが止まってしまい、堀の汚れが吐き出せない状態になってしまった。さらに田んぼの排水も原因のひとつ。排水のため4ヶ所のポンプ設備ができたが、堀がコンクリート化されたこともあり、ポンプ場から流し込んだ水で貞山堀はどんどん汚れた。田んぼの代掻きの時には生き物もさぞ息苦しかったろう。また貞山堀に流れ込む雨水でしょっちゅう洪水も起きていた。
■ 蒲生から北側の貞山堀は、内陸に掘り込んで造った仙台新港のために失なわれてしまった。貞山堀そのもののいいところがないがしろにされ、歴史や環境よりも“開発優先”となったものだ。そこに生活している住民などの意見も聴きながら進めていかないと将来しこりが残ってしまう。
■ 私たち仲間のレクリエーションとして、貞山堀を使い松島の桂島や馬放島などに家族連れで船で出かけて楽しんでいた。そんな思い出も残っている。
■ 安全対策を十分備えたうえでのことだが、自分たちのふるさとなので何とかそこに住まわせてほしいとお願いしているところだ。仙台市の復興方針に逆らって申し訳ないが、荒浜での現地再建をめざして、ふるさとを再生させたいと考えている。

******** A・B・C 各テーブルでの話合い 及び 全体討議 *********

(まず3つのグループに分かれて話合い、その後各グループからの報告がなされ全体での討議が行われたが、この記録の中では、スペースの関係上、話題にのぼったテーマごとに集約・編集して記載した)

■ むかし…

≪生活≫

● 墓参りなど荒浜の昔の写真を見て懐かしく胸がいっぱいになってしまった。貞山運河についてこんなに多くの皆さんが集まって話をしてくれるのがとてもうれしい。
● ハゼ釣りや海水浴などで荒浜に親しんだ。
● 堀の底からゴカイを獲ってそれでハゼ釣りをしたり、そこで洗濯する人もいた。
● 80歳近くの人の子供のころ、貞山堀に張った氷の上でスケートをしたとのこと。夏には海で泳いだあと貞山堀の水で体の砂を洗い落とした。大きい子が小さい子の面倒を見て、みんなで仲よく泳いだそうな。
● 荷車やリヤカー程度が主で馬車ですら貴重な運搬手段だった昔に、貞山堀はじめ多くの水路が舟運のための“運河”として機能していた。
● 荒浜で漁業を営んでいる。貞山堀は遊び場でもあり、シジミやゴカイ採りで小遣い稼ぎをし、ウナギの稚魚の漁も行う生活の場でもあった。
● 海には5ヶ統の定置網を仕掛け秋のサケ夏のイワシ、マンボウなども獲れた。稚魚が満潮で海から川を遡って夜には光に集まってくる。貞山堀は海と川が繋がっていて海水と淡水が混じり合い豊かな漁業資源があるところだった。
● 喘息気味の子供の健康を考え、海のそばの荒浜に移り住んで30年。干潮の時の貞山堀の底を掘ってゴカイを採ったりスルメを餌にしたり松林の中の棒切れを竿にして子供たちと貞山堀やその近くの沼などで釣りをした。水はきれいだったし、石積み護岸の石の隙間をつついてカニを捕ったりした。子供たちを遊ばせる場所としては最高だった。
● 以前の生き生きとした暮らしが震災で無くなってしまった。
● 海があって川があって夏涼しく冬暖かく暮らしやすいところだった。
● 貞山堀の自然が豊かな恵みを与えていてくれた。
● 行政はそこのところをわかっていない。皆さんの力を借りながら貞山堀を元のように戻したい。
● 四季折々の風光明媚な美しい貞山堀の風景がすごく懐かしい。変わり果ててしまった運河だが、何とか元に戻ってくれたらと思う。

≪松林≫

● 松林の中にはアミタケ・カンタケ・キンタケなどのキノコも育ち、野生のランもあった。
● 震災前、運河から海側を番線を使って車の出入りを制限していたが、それを番線で繋ぐことをやめ杭だけにしたらどうか。人は入れるという形にすれば、松林の中はキノコもハマボウフウもあり人がいっぱい入って松の木の根元を踏み固める。人が関わる環境をなくしてしまったのも津波の被害を大きくした要因のひとつと考える。そんなことも含めて連携を考えたい。
● 四駆の自動車がアジサシの卵を踏みつけてしまうのを防ぐため車を入れないようバリケードを設けた。
● 貞山堀を造る一方、松の木の植林もしていた。70歳代後半の人たちは植林作業のご褒美にビスケットをもらった…などと話している。
● 植林は最近まで行われてきた。
● 植えた苗木が定着するまで大変だった。
● あれだけの松林が、一本一本自分たちの手で植えていったというのはすごいことだ。
● 堀沿いの松の木が水面に映り、ダークグリーン・ダークブルーが本当に美しかった。

≪石積み護岸≫

● 石積み護岸からコンクリート護岸に変わったこともカニやゴカイなどの生き物の環境に影響を与えた。
● 生物の生育には農業排水に含まれる農薬も影響しているかも。
● 農業側で貞山堀などの水路と関係なく水田を改良してしまった。水路が深くなってそれまで30~50㎝程度だった田んぼとの落差が1mにもなり生息環境が激変した。魚が戻っていかないと田んぼの下草も含めて生態系が大きく変わった。
● 荒浜地区内はコンクリート護岸だったが、そこから外れた石積み護岸の所にはカモなどの鳥も来ていた。

≪歴史≫

● 政宗が仙台を開府する前から荒浜に人が住んでいた。
● 1601年から仙台の城下町が造られているが、それ以前にも、ズブズブの湿地帯が広がる沖積平野の中に集落を造り、海沿いの荒浜などに人は住んでいた。
● 貞山運河のことについてその“文化”を教えることはこれまで何もやってこなかった。だから、貞山堀は何のために造ってどんな歴史があったのか…という部分が子供たちもわかっていない。
● いや、荒浜小学校の先生方はこれまでも貞山堀について子供たちに教えることはやってきた。
● 荒浜小学校の校外学習で月に2~3度観察会もやっていた。



■ いま…

≪住民≫

● 地元の皆さんの話は重くこたえる内容だ。7m超の大防潮堤ができ潮風が遮られるようなコンクリートで守られた貞山堀で本当にいいのか?“松籟を聴く”というような環境ではなくなってしまう。
● 住民の方には“もうそこには住みたくない”という人も多いようだが、市ではどうか。
● 市では沿岸部一帯を無人化して“海岸公園”にと考えているようだ。確かに現地再建を希望する人達は少数派で、大多数の住民は跡地を市に買い取ってもらって移転し、市は買い取った土地を海岸公園に整備する…という方針のようだ。しかし、その形がはたして“いい”風景なのかどうか?
● 先程見た昔の荒浜の写真でも“生活”が感じられるが、震災後・がれき撤去後の写真は、きれいに整備されてはいても人の姿は無い冷たいものだ。人の姿の無い風景というものは、そこを訪れた人にとってもはたして“いい”ものなのかどうか?
● “ここを海岸公園にする。そしてどこかの業者さんが草を刈り門の開け閉めをして管理していくことになる”のかもしれないが、そういう形の貞山運河に“あそこがいいから行ってみよう”と思うようになるだろうか?それを少し考えてみたい。
● 窓ガラスが壊され草ぼうぼうとなって空き家が荒れ果てていく光景をこれまでいくつも見ている。田んぼを耕す人がいなくなって、あっという間に木が育ってしまい元の田んぼに戻せなくなってしまう。…そんな情景と同じ危惧がある。
● “生活感”があるということも大事だ。やっぱり人がいてこそ貞山運河も生きてくる。
● 戻った人たちのことを考えずに話を進めていったらどういうことになるのか?
● 先人たちが貞山運河を手と鍬で掘った思いを考えると、地震や津波など悲しいこともあろうが、豊かな自然に惹かれて海辺に戻り住んだ人たちが荒浜などの海辺の集落を築いてきた。
● 三陸も含め沿岸部みな同じだ。

≪事業の進め方≫

● 今年の夏から秋にかけて海にはずいぶん泳ぐ人が来たが、そのほか貞山堀にハゼ釣りも来た。結構な数が揚がっていた。しかし海岸はどこへ行っても“工事中立入禁止”。だから、工事の仕事が始まる前の早朝にでかけて行って、帰りはぐるーっと迂回して帰ってこざるを得なかった。
● 今の進め方を見ると防潮堤の工事がどんどん進んでいるが、そんなに早くやらないとダメなものか?全体の形が見えていないのに部分的に進めていってしまっていいのか…という疑問がある。そこに住んでいる住民の皆さんの意見が行政に反映して行政がそれを実施するという形が大事なのに、そこのところが“非常事態”ということで欠け落ちてしまっている。
● 防潮堤など国の直轄事業はどんどん進んでいる。荒浜地区住民への連絡はないが、今日11月28日も七郷地区連合町内会主催で貞山堀に関して説明会が行われている。荒浜に無関係の荒井地区住民や、もうそこに住む意志のない住民に対して説明されても“住民合意”という形にはならない。
● “津波シミュレーション”というのも問題だ。仙台平野に降った雨は海に向かって流れるが、県道嵩上げによってその水はどうなるのか?その点を考慮せず“津波が道路の上を乗り越えていくだけ”という設定のシミュレーションは機械的で不十分なものである。
● 貞山堀の歴史文化を伝え活かしていくためには、住民が入るべき。人が住まなければいけない。そこに住めるような形にする必要がある。移転希望の人達の意見が優先されてしまい現地に住み続けたい人達の思いが市や国などの行政に通じていない。“計画のための復興”“予算のための復興”になってしまっているのは問題だ。
● 5年という短期間で復興する…と言っているが、そのために住民の意見も聞かずに進めるなどいろいろな無理が出ている。
● 5年間で復興事業を実施するというのは、その期間を超えてしまうと国の金が使えなくなる…という事情もある。
● “100年150年に1回の津波への対応”は必要だとしても、一気に7m超の堤防を早急に造る必要があるのか?1回立ち止まって地元の意見も聴いて少し時間を置いてもう一度考えるべきだ。
● しかし、1回住まわせたらそれを戻すのは難しい。
● 行政としては何かあった場合、それが悪かったと批判されるのを恐れている。
● 役所は“市民の命を守る”…という立場だ。これからのことを考えた場合、再び人の命が奪われることがあってはならないという姿勢をとっている。若い親たちとしても、また命に関わることがあるかもしれないと思うと戻る気持ちにはなかなかなれないだろう。しかし、海が好きな人たちもいるし貞山堀が好きな人たちもいる。こういう震災が起きた今、戻りたいと思う人もいる中で、仙台市というブランドを考えたとき、あの地域をいったいどうやっていくべきか考える機会を作らなければならない。住みたいという人の気持ちも尊重してあげたい、けれども未来もあるし歴史もあるし、仙台市にとっても未来に向かってどれが一番いいのか…ということを全部テーブルにあげて考えたい。
● 貞山運河は市が関わる部分は少ないようだが、県道嵩上げにしても復興予算消化が優先になってしまっている。そこで暮らしの中で長年培われてきた地域文化を捨て去っていいのか?
●貞山堀そのものはこれまで生活圏の中で存在してきて、住民が張り付いていなければ何もない川となってしまう。住民が戻ってきて故郷とおもいながらやっていくから行政ももう少しきちっとやってください…という形が必要だ。そうしないと“ふるさとの川”にならない。いま危険区域となっている荒浜地区の皆さんがみな離れていってしまうと、海水浴場だって一時的に人は来たとしてもあとはほとんど来てくれない忘れられた川になってしまう。生活圏を区切ってしまうのはよくない。ある程度選択可能にして“私はふるさととしての思いがあるから戻る…”という可能性も入れながら計画を作ってほしかった。「ここは危険だからダメ。あとは行政で土地を買い取って公園にする』…という話が行政から一方的に強く出されてしまった。だから、「納得できない』とする住民の気持ちも出てきて当然だ。



■ これから…

● 10年後20年後、そこにどういう風景ができあがるのか…ということが全くイメージできない。その中で貞山堀をどうしろと言われても、どうしたらいいのだろうという戸惑いのほうが大きい。
● とりあえず“元のように復旧”したらどうか。余計なことはしないでそれから考えよう。

≪戻る≫

● 地元の皆さんから“何とか戻れないか”という話をいっぱい聞いた。人が暮らしてはじめて風景が維持され多様な生態系が守られる。暮らしがそこに営まれてこそ、外から来た私たちがそこに関わりを持とうとする気持ちが湧き上がってくるのではないか。
● 現地再建希望者が戻れるようにしたい。井戸浦では以前に茅が採れ、茅葺屋根の材料とした。農業が主でもウナギを獲ったりシジミを採ったり川の恵みをもらいながら暮らし、地域を作ってきた。「地震や津波があって危険だからここには住まない』と言っている若い人に、「それもわかるが、そうじゃないところもある。こんな方法で危険の無いようにすれば戻れる』と私は言っている。井戸浜地区120世帯くらいあった中で、戻るのは10世帯くらいか。
● 仙台市にはもともと20年前にも貞山堀やその歴史を利用してレジャー施設として観光地化しようという試みがあったが形にならなかった。堀の水が汚れていたことや南蒲生の下水処理場のこともあったろうが、荒浜の住民が貞山堀の観光地化にウンと言わなかったことも影響していた。今回は荒浜住民をウンと言わせる絶好のチャンス!と考えて、強引に進めているのかもしれない。
● 昨年の夏、若者たちは津波後の海でも泳いでいた。今年は中学生・高校生も泳いでいた。これが4~5年も経ったらまた何万人という人が集まる海水浴場が再開される。その時に地元住民がいなくて誰が海水浴場を守るのか?住民達が体を張ってロープを張ったりして安全を確保してきた。同じように貞山運河も人がいなければ十分な管理もできない。毎年夏前に住民総出でみんなで鎌を持って貞山運河から松林にかけて地域で清掃活動をやってきた。
● やっぱり、人がいないとダメになる。
● “海岸公園”と位置付けて市が税金を使って業務委託などで業者に作業をさせることも可能だろう。きれいに整備されたところをこれも業者に委託して管理する海水浴場にお客さんを迎える…ということも可能だろう。しかし、はたしてそれが“いい”形なのか?住民が中心となって管理しながらお客さんと交流するのと、税金を使って業者に業務委託して管理するのとどちらがいい形なのか?
● 何百年に1回の津波という怖い思いをしながらも、荒浜に戻りそこに豊かな街を作ってきた。それをもとに貞山運河を掘りそこからの恵みで日々の暮らしを営んできた。私達は貞山運河を守りながら、子供たちなど後世の人たちに、そういう怖いことも含めいろいろな体験をしてきたことを伝えていきたい。
● そこに住んでみないとその良さがわからない。昔の人達も災害のあと一度は遠のいたかもしれないが、それが何百年に一回のことであれば、自然から受ける豊かな恵みや人情などに惹かれて元の地に戻ってきた。それで今の荒浜がある。
● “ひとり特区”という面白い考え方がある。井戸浜住民が1人ででも元の地に戻って暮らし始めている。
● 三陸大津波後の状況を見ても、被害を受けたところでも法律がどうあろうと人々は戻ってくる。

≪石積み護岸≫

● コンクリート護岸を石積み護岸にして浸水機能を持ったものにしてほしい。
● 石巻周辺では特産の稲井石を使ったりして。コンクリートで固めてしまうのではなく、生き物たちと共存するような水辺の造り方が当たり前になってきている。

≪将来像≫

● 県道を走行する自動車などの避難場所を4か所ほど設けるとの案が示されたが、それを利用しながら住宅用地としても使うような案も提案していきたい。
● 貞山堀の海側に盛土による小高い丘を造成して安全を確保し、いざというときそこに避難できるようにする…という案もある。こういったものを叩き台として専門家の意見も聞きながら形づくっていきたい。
● 荒浜住民が描いた将来像がある。荒浜で数mの盛土の上に住宅地を造り、貞山運河に面した所には船着き場がありウッドデッキがあり堀サイドテラスカフェがあり漁業用の納屋があり…と、ちょっとお洒落な姿も描かれている。住民も安心して暮らすことができ、そこを訪れた人も心地よく過ごせるという形だ。
● これは貞山運河の東側・海側に造っているが。ここは貞山運河開削前の明治以前は荒地だった。
● この絵ではたまたまそういう形に描いたが、それに限ったものではなく、貞山堀の西側にも地区の北側にも造ることはあり得る。
● これは日本に昔からあった濃尾平野の“輪中”の姿に似ている。“丸い”というのはとてもいい。
● “水を逃がす”という意味で丸い形にした。
● 直線的な防波堤で抑え込むのよりもいい。
● これを貞山運河より陸側に造ったほうがいいのでは?
● これまでも海のそばに住んでいた者としては、初日の出のように毎日朝日を拝みちょっと出ると牡鹿半島が見えるという、そんな海のそばに住みたいと思う。
● 海のそばでの暮らしをもういちど作っていきたい。海のそばでもあり貞山堀のそばでもあり、舟遊びするなど訪れた人そこに住む人と交わりながら関わっていくというのが大事だ。
● 他に移りたいという人もいてもいいが、そのほかに街のほうから新たに荒浜に住みたいという人も出てくるはず。
● “貞山堀での舟遊び”というのは、ここ数十年失われていた機能だ。地域住民は既に普通にやっていたかもしれないが、一般市民の皆さんはほとんど来ていなかった。
● 津波のことは後世に伝えていかなければならない。
● 3ヵ月後6ヵ月後1年8ヵ月後…の印象がどんなものになっていくのか、時間をかけてみていきたい。



 

報告:いま、貞山運河を考える会

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